古代ペンジケント
古代ペンジケントの廃墟が注目されたのは100年以上も前である。古代ペンジケントの調査に大きな功績を残したのは著名な考古学者たち(ヤクボフスキー、ジヤコノフ、ベレニッツキー、スミルノワ、ヴォロニナ、イサコフ、マルシャク等々)であった。彼らの仕事のおかげで、ペンジケントはソグド人の大きな文化的記念碑として、国民の資産となった。
1946年から古代ペンジケントの防塞集落跡の発掘が行われた。その場所は、現在のペンジケント市の南側に位置する有名な水源「カイナル」付近で、現在では市民の必要な水はここから供給されている。防塞集落跡からはゼラフシャン盆地とそれを囲む山々が見渡される。
ペンジケントの防塞集落跡は極めて複雑な遺跡である。それは三重の広い堡塁からなる要塞であり、周囲は城壁、外部居住区、墓地などで囲われたシャフリスタン(初期封建制都市)であった。
都市は5世紀に建設されたが、要塞地帯の堡塁の建設はそれより以前である。このシャフリスタンの初期の広さは約8ヘクタールで、6世紀になって東から南へ拡大し、城壁で囲われ、その内外に区画が整備され、それは約200年間に渡って存在した(総面積13.5ヘクタール)。内側の城壁は何度か再建され、その後、8世紀に取り壊された。
ペンジケントのシャフリスタンの中心部は、二つの互いに似た構造の神殿を含む四角形の区画になっていた。各々の神殿には東側と西側に二つの中庭があり、東側の中庭を通じて外へ出入りし、西側には東を向いて主要な建物がたっていた。神殿は何度も建て替えられたが、建物の本質的な特徴は維持された。神殿の中庭の主な構成は、柱廊玄関から傾斜路へ向かう東西の道であり、その傾斜路を登り、主神殿の台座に上がるようになっていた。神殿には広い柱廊があり、4本の円柱で支えられ、東壁の無い広間へ続いていた。広間の奥には神殿のセラ(古代小アジア・ギリシャ・ローマの神殿の内陣)の四角い扉があった。広間とセラには三方向から回廊があった。
豊かな住民の家々の客間は、壁画や木像で飾られ、矩形の広間には4本の円柱にもたれ掛かる仕切りがあった。要塞の中にあるデヴァシチッチ公の宮殿は、ペンジケントの典型的な富裕層の家である。ペンジケントの首長は、市内の同等な上流階級の一人にすぎなかった。しかし彼の宮殿には、正方形の客間が3部屋と長方形の客間が1部屋あった。
郊外では墓地が調査された。地上の小さな納骨所には陶器の骨壺があり、きれいに磨かれた死者の骨が入っていた。納骨所は5~6世紀から8世紀の間に建てられた。ペンジケント郊外の納骨所の他に、大きな容器や墓に入った骨の埋葬地も知られている。(カタコンベなどの地下埋葬所)
古代ペンジケントが世界的に有名になったのは、1948年から毎年実施された壁の発掘作業中に発見された壁画によるものであった。壁画は首長の宮殿、神殿、数十カ所の上流階級の家々、そして時には中流階級の家々でも発見された。壁画の質は、その発注者の社会的地位の如何に関わらず、絵師は常に最高の職人芸を発揮した。
神殿でも、家でも、宮殿でも、壁画作成プロセスには必ず礼拝の儀式が含まれていた。生け贄か神仏が供えられた神の前で、絵師はまず彼と同時代の実際の寄贈者を描いた。神殿では、このような作品は、主要建築物の副次的な壁画として残されている。家々では各家庭の守護神(各家庭にソグドのパンテオン(万神殿)のそれぞれの神がいた)が客間の入り口の反対側に大きなサイズで描かれた。時々一人の神の代わりに、二人一組の神が描かれた。主要な画像の近くに、その家の主(あるじ)か両親の小さな姿が描かれた。
多数の作業所や商店の発掘は、住民の生産活動と社会構造の特徴を知る上で大きな意義があった。作業所からは焼窯、ふいごのノズル、鋳型、溶解槽などが発見された。ペンジケントでは町の貨幣が鋳造されていた。
ペンジケントでの考古学調査では、古代都市の住民の生活を飾る様々な物品が大量に発見された。発見された古代ペンジケント遺跡の意義は、中央アジア史にとって過小評価されるものではない。
古代防塞集落跡で発見された品々は、サンクトペテルブルグのエルミタージュ、ドゥシャンベのベフゾト記念博物館、ペンジケントのルダキー記念地方史博物館、タジキスタン古代史博物館に展示されている。
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古代ペンジケントの防塞集落跡では、公共の建物である神殿や住民の居住区跡地から、60カ所以上の部屋が発見され、それらの壁はかつて様々な題材の壁画で飾られていた事が判明した。かつては大量に存在したそれら芸術性の高い壁画が現在まで残った数は、もちろん少数だけである。8世紀前半、アラブ人が進入してきた際、住民は抗戦し、壁画が描かれた多数の部屋が焼失した。焼損しなかった部屋の壁画は、断片的に残ったが、それらがいつも完全に復元されるわけではない。
古代ペンジケントの住居区の建設では、住民の富裕層に多数の住居が割り当てられた。それらの住居は互いに良く似た構造が特徴だった。一階中央部には普通は広く矩形に近い客間があり、そこへ廊下と家事室が続いていた。柱、天井、ドアなどで構成される客間は多色の壁画や木製彫刻で飾られていた。
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アジナ・テパ寺院から出土した巨大涅槃仏
博物館で最も人気があり、価値のある展示品は何かと問われれば、多くの人は涅槃仏と答えるのではないだろうか。この涅槃仏の長さは12.85m、重さは5.5tである。この涅槃仏は中世の仏教僧院「アジナ・テパ」での考古学調査の過程で発見され(1966年)、今日では世界で最も大きな涅槃仏の一つに数えられている。
アジナ・テパ寺院は、7世紀から8世紀にかけて活動していた仏教寺院であり、クルガンチュベから12km離れた場所にある。
アジナ・テパ寺院の建物は、日干し煉瓦と練り土構築されていた。長く広がった矩形のスペースは丸天井、角形のドーム、窓、アーチなどで囲まれていた。
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涅槃仏発掘の様子 |

アジナ・テパ寺院からの出土品 |

アジナ・テパ寺院からの出土品 |
8世紀、中央アジアの歴史に新たなページが開かれた。それはアラブ系の人々の中央アジアへの襲来と定住だった。その後アラブのカリフ制の抑圧下にあった中央アジアの諸民族は、外国文化、宗教、言葉、重税、その他の強制に対し、自由のために積極的に戦った。この時代にタジクという名称が生まれ、タジクの意味は「王冠」であり、そこから「王位関係者」、又は「名門の人」となるようである。
9世紀から10世紀にかけてタジク人の国家であったサーマーン朝の時代が始まった。ナスル1世の弟イスマイル・ソモニーのときが最盛期で、サッファール朝を破ってホラーサーンまで直接支配下に組み入れ、中央イランまでその影響下に置いた。サーマーン朝の統治下ではアラブ人の征服以来沈滞していたイラン文化がイスラムと結びついて再興し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記する近世ペルシャ語が発展した。それは現代タジク語の源流でもあり、手工業、貿易、科学、文学、芸術などが開花した。イスマイル・ソモニーが定めた首都ブハラは学問の中心となり、ペルシャ・タジク文学の創始者と言われるルダキー、古代から回教が浸透する7世紀までのイラン史「シャフナメ」を記述したフィルドウシ、何世紀もの間ヨーロッパの主要な医学指導書であった「医学典範
」を執筆したイブン・スィーナーなど、当時のイスラム世界を代表する知識人があらわれた。サーマーン朝を訪れた当時の旅人や学者が残した文献には、サーマーン朝の優れた国家管理体制についても記述されている。イスマイル・ソモニーは民族の英雄として高い評価が与えられ、独立後のタジキスタンの通貨単位であるソモニも彼の名に由来している。
10~13世紀にかけてタジキスタンの国土は様々な国の支配下に入った。南部のアフガニスタン方面ではマムルーク系の将軍アルプテギーンがガズナで自立してガズナ朝を開いた。 一方で北方の草原に興ったテュルク系遊牧民のカラハン朝が南下を開始し、サーマーン朝は両者に挟撃される形で滅亡した。13世紀にはチンギスハーンの襲来後、タジキスタンの国土はモンゴル国家のチャガタイ・ウルスの支配下に入った。
14~15世紀にはタジキスタンはティムール朝の領土となった。この頃、天文学、文学、芸術が大きく発展した。タジキスタンの国土は、16世紀にはブハラを首都とするシャイバーン朝の領土となっていた。この時代にブハラ・ハン国(後のブハラ首長国)、ヒワ・ハン国が形成され、18世紀にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。これらの国の統治者はウズベク王朝出身であったが、内乱も多く不安定な国情だった。ここにロシア帝国が南下をし、1868年、タジキスタンはトルキスタン総督府の一部としてロシア帝国へ組み込まれた。国土の北部とパミール高原の大部分がロシア領となり、南部のブハラ首長国はロシアの保護国となった。
1895年の露英協定により、バダフシャン(東パミール)のピャンジュ川に沿ってブハラ首長国とアフガニスタンの国境が定められた。(ヴァハン盆地にある集落のランガル付近でパミール川とヴァハン川が合流し、ピャンジュ川となる。ピャンジュ川は川幅の広い穏やかな流れになったり、激しい急流になったり、場所によって大きく様相を変えるが、川に沿って道路がある。パミールから流れ出るこの川は、やがてヴァフシ川と合流し、アムダリアとなる。)
現在のタジキスタンの南東部と中央部は、当時のブハラ首長国の東部と西パミールであり、ブハラ首長国の領土とされたものの、ダルヴァズ川(DARVAZ)左岸、ヴァハン、イシカシム(ISHKASHIM)、シュグナン(SHUGNAN)、ルシャン(RUSHAN)の左岸はアフガニスタン領となった。ロシアへの併合は経済、政治、文化などの分野で恩恵もあったものの、中央アジアの他諸国同様、タジキスタンもロシア帝国からの圧政に苦しめられ、この時期は民族解放運動も活発だった。1920年、ブハラ首長国政権が転覆し、ブハラ人民共和国が成立し、1924年には中央アジアの国境画定の結果、ウズベク社会主義共和国の中にタジキスタン社会主義自治共和国が誕生した。タジキスタン社会主義自治共和国にはトルキスタン地方の12の郷、ブハラ東部地域、パミールの一部が含められ、政治と文化の中心だったブハラとサマルカンドはウズベキスタンの領土内に残された。1929年12月、タジキスタン社会主義自治共和国はソビエト連邦を構成する共和国の一つに格上げされた。
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大統領官邸 |

ドゥシャンベ駅 |

医科大学
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内戦
ソ連崩壊後、独立したタジキスタンの政権を掌握したのは、それまで共産党の第一書記だったラフモン・ナビエフだった。しかし、ソ連の崩壊と再編過程の中で誕生した強力なイスラム野党連合は、長らく続いた地域間格差に対する不満や、隣国アフガニスタンでのナジブラ政権崩壊の流れに乗って、ナビエフ政権の転覆をはかった。
間もなく親ロシア系の人民戦線とタジキスタン野党連合(イスラム系連合)に分かれて内戦状態となり、内戦は1992年から1997年まで5年間続いた。
内戦の要因として、国家や民族全体の将来という問題よりも、地域のアイデンティティに立脚し、地域の利益を優先する「地域閥」の存在があったようである。険しく複雑な山容が、各地域間の行き来を難しくしている地政学的特徴が、地域単位での経済活動を促し、地域閥が形成されやすい環境となっている。現在ソグド州と改名された北部地区は、内戦時はレニナバードと言われ、ソ連時代はタジクの予算の大部分が投入され、ソ連の支援も大きく、この地方の地域閥が国政を支配してきた伝統があった。一方で、パミール地域は、民族、言語、宗教などが異なり、国の予算からも見放されてきた地域である。ソ連が崩壊し、その影響力が衰退した時、それまでの政府の方向とは違った立場で地域の利益を求め、内戦には積極的に関与したようである。また、内戦が勃発した時、アフガン国内のタジク系イスラム主義者たちが積極的に内戦に参加し、南部のクルガンチュベ地域にはイスラム主義支持者が多かった。現大統領のラフモンはクリャブ「地域閥」の代表であるが、クリャブ地域は北部のレニナバード地域や、共産政権には同調してきた歴史があった。即ち、一方の中核は北部レニナバード地域、クリャブ地域を中心とする共産政権時代からの伝統的な権力基盤であり、ロシア、ウズベクにとっても好ましい勢力であり、他方の側は、イスラム主義を中核とするクルガンチュベ地域、パミール地域という色分けも出来そうである。
タジキスタンのイスラム化はこの地域の地政学的な驚異になると判断した隣国のウズベキスタンとロシアは積極的に人民戦線側を支援した。
人民戦線は1992年9月に南部の要衝クルガンチュベを占拠し、その一月後にはドゥシャンベへ最初の攻撃を行い、1992年の年末にドゥシャンベを奪還した。
この時の人民戦線を指揮していたのがエマムアリ・ラフモンで、彼がそのまま新政府の政権を掌握し、1994年に大統領に選出された。反政府イスラム主義勢力は徐々に追い詰められ、東パミール、アフガニスタンへ追い出された。
1997年、国連タジキスタン監視団(UNMOT)の和平調整の結果、1997年6月に最終和平合意が達成された。
その後の1998年7月、秋野国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官を含む4人のUNMOT要員が、ドゥシャンベ東方の町ラビジャール近くで武装強盗団に襲われ、殉職した。この武装強盗団の容疑者たちは逮捕され、1993年3月に死刑判決が下されている。
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政府官邸 |

オペラ、バレー劇場 |

共和国博物館 |
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