アルメニアの印象
《教会》
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![]() 聖エチミアジン教会 |
アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教とした国であり(301年)、アルメニア教会は世界中のキリスト教会の長姉と見なされています。聖書にはエレヴァンからよく見えるアララト山(標高5156m)に『ノアの箱船』が漂着したという言い伝えが記述されており、アルメニア正教の総本山である聖エチミアジン教会(303年建立)の付属博物館にはキリストを刺したという槍が保管されています。エチミアジン(写真参照)はエレヴァンから西方へ約25km離れた場所にあり、荘厳な石造の教会でした。教会の周りに花屋さんがあるのはわかりましたが、生きた羊や鶏を売っている人もいました。仏教圏から来た僕には理解し難かったのですが、それは生け贄でした。よく見ていると生きた羊や鶏を持参している人々が目に付きました。アルメニアがソ連邦の一員になってから宗教界は冬の時代に入りましたが、1991年の分離独立以降は宗教界にも徐々に活気が戻っており、現在ではその活動にいかなる制限も無いそうです。でもロシア同様、社会主義時代の影響はまだまだ残っており、市民に聞いたところ、信仰の厚い人々は半分以下で、大多数は宗教を否定はしないが、それほど熱心ではなく、昔からの宗教的習慣には従うといった感じでした。 |
《夏》
《石》
《料理》
![]() 縦穴のかまど |
アルメニア料理と言えば、その代表は『ホロバツ』でしょうか。ホロバツはロシア語では『シャシリク』と言い、長い金串に肉のぶつ切りや野菜を刺して焼いた料理です。ホロバツの肉をラワシと言われる薄皮のパンで包んで食べるのが習わしのようです。肉は豚肉、牛肉、鶏肉などですが、僕は豚肉が美味しかったです。肉以外にもトマト、ナス、ピーマン等をそのまま丸ごと刺して焼いていました。豪快です。ピクニックに出かけると石ころ等を利用して即席のかまどが用意され、男性陣がホロバツ料理に取りかかります。ホロバツを料理できない男は一人前とは見なしてくれないそうです。人跡希な岩山の奥に建立されたノラバンクという寺院を訪問した帰路、民家風の料理店で食事をしたのですが、そこでは挽肉を金串に付けて焼く『ケバブ』という料理が縦穴の中で焼かれていました。ケバブはホロバツと違って挽肉を使い、挽肉を金串に巻き付ける感じです。 |
![]() 市場ではニジマスが活魚で売られている |
アルメニア料理は全体的に脂っこい感じがして、毎日ホロバツだと食傷気味になるのですが、そういう時はニジマス料理が最高です。市場 へ行くとフォレーリというニジマスがイケスの中で泳いでおり、活魚のままで売られています(写真参照)。このニジマスはセヴァン湖で天然物が捕れるそうですが、天然物は数が減り、養殖物が主流になっています。アルミホイール蒸し、塩焼き等でニジマスをいただきましたが、とても美味しくて、日本人向きな料理だと思いました。アルメニア料理は種類が多く、ここで全てを記述出来ませんが、エレヴァン市内には多くの料理店があります。イタリア料理店、フランス料理店、中国料理店等ですが、変わったところでは地中海料理店、メキシコ料理店とか日本料理店もありました。見晴らしの良いレストランはエレヴァン市内を一望の下に見渡せる『アムロツ』、澄んだ空気と自然の雰囲気を楽しみたいときは郊外の『ゲタップ』、民族音楽を楽しみながら食事をしたい時は『カフカス』などでしょうか。僕が気に入ったところは滞在中にオープンしたアイリッシュパブでした。 |
《人々》 アルメニアの人々は一般的な傾向として『家族の絆』を重んじ、大切にしているようです。旧ソ連圏の中では離婚率はかなり低いです。傾向としては亭主関白型の家庭が多いそうで、女性は家庭に入れば(結婚すると)、夫婦間でもめ事が有る場合は夫に逆らわずに耐えるそうです。それが当たり前だそうで、長い間の伝統になっているようです。女性が大声を上げたりする事とか、女性に対して大声を上げたりする事は御法度だそうです。女性社長とか女性代議士等はかなり少なくて、男子優位社会であり、何だか昔の日本と似たような感じを受けました。日本に対するイメージは電化製品等を中心とした製品を大量に生産している経済的に進んだ国という感じでしょうか。名前の代わりに、『ソニー』、『東芝』、『パナソニック』等と勝手にあだ名を付けられて呼ばれた事もありました。個々のアルメニア人は概して親日的な人が多いです。 |
《経済》 独立したアルメニアですが、経済的にはイバラの道を歩んでおり、現在の状況も大変です。多くのアルメニア人に聞きましたが、失業率はかなり高そうです。旧ソ連とリンクした生産システムが崩壊し、市内にある多数の基幹工場が閉鎖されたままになっています。郊外のほうにある窓ガラスや壁が壊れた多数の工場群がアルメニアの苦境をそのまま映し出しています。生産が激減して、工場の維持管理の為にわずかの賃金で週一度だけの出勤をしている人々も多いようです。そういう人々も失業者とするならば、失業者の実数は全労働可能人口の約半分ぐらいではないかという声が多かったです。カフェーやレストランのウエートレスさんに聞いたところ、彼女らの賃金は月額50ドル前後のようでした。工場などで働く工員さんは月額100ドル程度、守衛さんは月額50ドル程度です。 アルメニアは海に面しておらず、四方を囲む隣国との関係も良いとは言えません。外貨獲得に直結する資源も無く、経済的な閉塞感に苛まれる若者の多くは海外志向です。1915〜1916年のトルコによるジェノサイド(およそ150万人が殺害されたと言われる)では80万人が難民となって世界各地に移住しましたし、ソ連時代を通じてロシアを含めた旧ソ連圏に定住しているアルメニア人は現在でも100万人程度はいるようです。移民の国であるアメリカにもアルメニア人が多いそうで、こちらも100万人程度のようで、国内の総人口よりも海外にいるアルメニア人総数の方が多いそうです。移民後に成功したアルメニア人で、母国アルメニアに経済援助をしている人は多いです。アルメニア地震後の住宅の整備とか、最近の幹線自動車道の整備などはこうした援助で実施されました。アルメニアはその昔、東洋と西洋を結ぶ交通の拠点にあり、そんな環境で育まれてきたアルメニア人は旧ソ連圏の中でも自他共に認める商売上手な民族でした。東はカムチャッカから西はウクライナまで、旧ソ連圏の大きな市場には必ずアルメニア商人がいたものです。隣国アゼルバイジャンとの紛争が一段落した以降も国外への人の流れは止んでおらず、国外へ出た多くの人々が国内に残った親族へ送金をしています。たいがい毎月100ドル〜200ドル程度の送金だそうですが、低賃金のアルメニアではこうした出稼ぎも経済の大きな要素となっています。 |
《課題》 アルメニアの課題は隣国との良好な関係ではないでしょうか。海への出口を持たないアルメニアにとって、全ての物資が通過する隣国との関係は重要ですが、四方を取り囲むトルコ、アゼルバイジャン、グルジア、イランとは必ずしも良好な関係にあるとは言えません。 トルコとはジェノサイド以降、一世紀近くも外交関係が無いままです。市場や商店街に並ぶ商品に多数のトルコ製品があります。特に衣料品、靴、雑貨類はトルコ製品が多いです。これらの商品が第三国を経由しないで、直接国境貿易で入荷してくるならば価格ももっと安くできるでしょうし、アルメニアにとって西の大国であるトルコとの外交関係修復は様々な分野で雇用機会が生み出され、経済的にも大きな効果をもたらしそうです。エレヴァン市内からはアララト山がよく見えるのですが、このアルメニアの母なる山とも言うべきアララト山は現在ではトルコ領です。第三国経由ですが、最近はトルコがこのアララト山へのアルメニア人の巡礼を許可しているそうです。 東の隣国アゼルバイジャンとの戦争は停戦状態ですが、石油資源の無いアルメニアにとってアゼルバイジャンとの緊張した関係は望むところではないはずです。 |