紀行
プーシキンスカヤ 旧国境地帯を訪れて
違法と合法 冷戦の記念碑
プーシキンスカヤ
 2007年の正月頃にユージュノサハリンスクのアルピニストたちと知り合いになり、それ以来何度か山に誘われていた。しかし僕は冬山を想定した装備は何も持参しておらず、暖かくなるのを待って、近場の山に日帰りコースで案内してもらう事にしていた。やがて4月になり、山も厳冬期から解放されたある日曜日、南樺太では一番高いプーシキンスカヤという山へ出かける事になった。

(プーシキン山。この写真は2008年5月中旬に撮影)

 その日、ユージュノサハリンスク市内はあいにく朝から大雪だった。山へ出かけても写真日和では無さそうだったし、降り続く雪をながめながら、出発をしば らく躊躇していた。その時、案内してくれるという地元アルピニストのワーシャから電話が入った。出かけるか、中止にするかの相談だと思ったら、出かけるの を前提とした準備状況の確認電話だった。どんな天候でも毎週のように山を歩くという地元山岳会の人たちに興味があった事と、今頃の南樺太の山々の状況も 知っておきたい事で、誘われるままにプーシキンスカヤをめざす事とした。

 一緒に出かけたのはワロージャ(山岳ガイド、写真家)とワーシャ(地質学者)と僕の3名だった。彼らは頻繁に山へ出かけ、冬山もやっているので、装備品はしっかりしていた。

 当初、僕が一番年上と思い、疲れて動けなくなったら、若い人たちが面倒を見てくれる事にささやかな期待をしていたが、年齢を聞いたら、なんとワロージャ が62歳、ワーシャが67歳で、結局僕が一番の若輩者だった。歳の順から言えば、どうやら僕が一番動かなければならない立場であった。8時に登山口に到着 し、降雪の中、ただちに登り始めた。

 彼らはスノーシュー、オーバーシューズを装着し、僕は借り物のスパッツを足首に巻いて二人に挟まれながらとことこ歩いた。

 
  この季節は熊が冬眠から目覚める頃だそうだが、今日は雪も降っているし、熊さんにはもう少し眠っていて欲しいと思いながら、なだらかな斜面を進んでいっ た。ちなみに熊の撃退手段として、大きな音が出続けるサイレン、火花を飛ばして熊を威嚇する装置などを持参していた。50分歩いて10分ぐらい休むピッチ で登り続けたが、足が雪にズボズボ入り、場所によっては股まで入ってしまって、抜け出るのに苦労し、最初の2時間でかなりバテてしまった。そこで67歳の ワーシャが僕のザッグも担いでくれ、僕は空身となったが、次の1時間で足がだんだん前に進まなくなってしまった。



  中腹を過ぎた辺りで、半ば雪に埋まった獣の足跡が確認できたが、ワロージャの話だと、冬眠から目覚めたばかりの熊の足跡だった。その話を聞いて全身が緊張し、疲れを忘れてまたとことこ歩き出した。ワーシャは相変わらず甲高い声で昔の山行の話をしていたが、こういう声は、熊に遠くから人間の所在を知らしめる事にもなり、熊は人間たちから離れていくようである。それと、ワーシャの話を聞いている僕の反応ぶりで、僕の疲れ具合も確認しているようでもあった。相変わらず湿った雪が降り続き、やがて疲労のためだと思うが、周囲が急に暗く見えたり、光って見えたり、変な具合になり、ワーシャのひっきりなしの声が煩わしく感じられ、それとともにワーシャ、ワロージャとは間隔がつきやすくなってきた。

山頂部の尾根に出る手前で、降雪の中に頂上へ至る斜面がかすかに見えた。今日の予定は、プーシキンスカヤの山頂から、それほど標高は違わないチェーホフ山の頂上へ至り、チェーホフ山の反対側へ下山する計画だった。しかし、僕の体力が限界状態なのと、山頂付近は降雪、ガス、強風のようであり、今回はガスの中で見えた斜面を登るのには無理がありそうだと思った。登ったところで、降雪の中ではきれいな風景にお目にかかれる事も無さそうだし、引き返すタイミングを推し量りながらの重い足取りとなった。やがて前を行くバロージャとワーシャの姿が見えなくなり、名前を呼んでも返事が無くて多少心細い感じがした。間もなく、彼らは引き返してきて、僕が思った事と同じ判断を僕に伝え、山頂手前で 引き返す事になった。彼らだけだったら、あるいは引き返さずに登ったのかもしれないが、ここは安全を最優先にしていただいた。

  樹林帯まで戻って枝の大きいモミの木の下で焚き火をし、昼食をとった。テントの中でガソリンやガスを利用してショボショボ料理をするのと違って、焚き火 で暖まりながらの食事はありがたかった。大きめの灌木をさがし、それを何個か敷いて炉床にし、その上で焚き火をした。雪の上でも簡単に焚き火をしてくれたおかげで、僕は一息つく事が出来た。かなり山慣れした連中だった。

  僕はおにぎりを6個用意してきたの で、三人で二個ずつ食べた。その時ワーシャが、「これは寿司と言うのだろう?」と、聞いてきたので、思わず笑ってしまったが、おにぎりと寿司の違いを一応 説明しておいた。やがて雪はやんだが、僕には今さらもう一度山頂をめざす気力も体力も無く、その楽しみは次回に持ち越す事にした。


 下山途中、ロシア語でチャガと言われる白樺キノコを採取した。癌などに効用があるとされ、日本でも高額で取引されているようである。

 
  僕もおこぼれに預かり、真っ黒なチャガの塊をいただいたが、今のところはまだ冷蔵庫に入ったままである。


 登山口まで降りたのは午後4時半頃だった。そこには小川が流れていたが、同行したワーシャは、やにわに裸になって、その川の中に入り、泳ぎ始めた。4月 とはいえ、周囲はまだ雪景色、水温は2〜3度程度ではなかっただろうか。僕は唖然とし、ただひたすらカメラのシャッターを押し続けた。何だか同じ人間には 思えないほどの体力、強さだった。しかも、それが67歳だそうで、まったく恐れ入った次第である。




 僕には単なる山歩きの経験しかないが、彼らと一緒に歩いてみて感じたのは、軍隊式トレーニングの有無である。数年前のカムチャッカでの山行の際には現役の 軍人さんがガイド役をしてくれたが、やはり同じような強さがあった。ワーシャやワロージャは軍人ではないが、若い頃は徴兵の軍役でしごかれたほうではない だろうか。彼らはフィジカル的に強く、そして心は優しく、エスコートをしていただくには最高の人たちだった。また機会があったら彼らとぜひ一緒に山歩きを したいと思っている。



2007年4月
Samovar 記