紀行 | |||||||
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旧国境地帯を訪れて | |||||||
サハリンが樺太と言われていた時代、北緯50度線が国境であり、そこからサハリンの南半分は日本の統治下にあった。ここ二年ほどサハリンに長期出張となり、仕事の関係でその旧国境地帯を行き来する機会が幾度もあった。サハリン島を南北に縦断する現在の国道は、戦前は「中央軍道」と言われていた。この縦貫道を北上し、北緯度線の旧国境地帯が近づくと、その付近にはいまだに旧日本軍のトーチカ跡があちこちに残存しており、戦死者の霊を弔う慰霊碑も目にする。 |
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戦後、この旧日本軍のトーチカを撤去しようとしたが、コンクリートがとても強固で、基礎も深く、撤去費用もままならず、結局そのままになっているそうだ。 | ||||||
歴史を振り返ってみると、ソ連が宣戦布告をしたのは8月9日で、その日は長崎にも原爆が投下され、統帥部に於いては連合国に対し、ポツダム宣言の受託条件を打診するなど、第二次大戦の帰趨はほぼ決まったような状況であった。8月9日、ソ連軍は北緯50度線を越えて偵察行動を開始し、さらに国境から4km離れた半田(現・ロシノ)を砲撃した。結局、兵力、重火砲、戦車で圧倒するソ連軍の前に8月12日、半田の野戦陣地は陥落した。当時の国境沿いの日本軍側には戦車、飛行機が一台も無かった事を考慮すると、短期間とは言え、周到に準備され、空軍の支援を受けたソ連軍主力を国境付近に押し止めた半田の守備隊の戦いぶりは特筆に値する。 8月13日以降は、中央軍道沿いの次の拠点であった古屯(現・ポベジーノ)をめぐる攻防戦となった。古屯駅、古屯川(現・ポベジンカ川)沿い、幌見峠などで激しい戦闘が繰り返され、日本側守備隊の主力は古屯近郊の八方山、北斗山にこもり、頑強に抵抗したものの、8月16日、ソ連軍により古屯地区は制圧された。 |
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![]() 幌見峠付近の日本軍陣地跡 |
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その前日の8月15日、ポツダム宣言を受託した日本に対し、マッカーサーの指令により、全米軍は一切の戦闘を停止した。同日正午には「玉音放送」があり、終戦が宣言され、8月16日に大本営は「即時戦闘停止命令」を全軍に発令した。その当時のサハリンでソ連軍と対峙していた日本の第五方面軍第八十八師団にも命令は伝達された。どの歴史にも時々「もしも」という言葉が問い返されるのであるが、「もしも」ソ連軍もこの時点で戦闘行動を停止していれば、その後にあった悲惨な戦禍は免れたはずである。しかし、サハリンにおいては、ソ連軍は8月16日には西海岸の塔路(現・シャフチョルスク)に空爆と艦砲射撃を加えながら上陸するなど、戦線は逆に拡大していった。日本側は停戦命令を受け、各地で白旗を掲げ、話し合いを求めたが、勝者と敗者の帰趨が決した混乱期、ソ連軍は停戦に応ずる事はなく、南端の大泊(現・コルサコフ)をめざして進軍していった。日本軍は民間人の保護、自衛のために局地的に抵抗戦を行わざるを得ず、犠牲者は増え、ソ連軍の中にも死傷者は増えていったようだ。 |
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樺太・千島戦没者慰霊碑 慰霊碑の内側の銘板には 『さきの大戦において 樺太及び千島地域並びに その周辺海域で犠牲となった 全ての人々を偲び 平和への思いをこめて この碑を建設する』 と記されている。 |
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さて、古屯で本来は終戦、戦闘停止になるべきはずが、古屯の陥落後、ソ連軍は中央軍道沿いの次の戦略拠点であった気屯をめざした。気屯は現在ではスミルヌィフという町であり、戦後はここに囚人用の大きなラーゲリが建設され、それは今でも存在している。ちなみにスミルヌィフという名称は、古屯の攻防戦で、名をはせた連隊長の名前を記念にしているようだ。戦史を調べてみると、古屯の北側に古屯川(現・ポベジンカ川)が流れ、対戦車防御がほどこされた川岸を見おろす幌見峠は重要な戦略拠点になっていた。スミルヌィフ大尉は部下と共に東側の湿地帯を迂回し、幌見峠の南側に出て、古屯駅を奪取したが、その後の攻防戦で8月16日に戦死し、ソ連邦英雄の称号を得ている。 このスミルヌィフをさらに南下していくと、ブユークルイという集落がある。夏季はラマーシカが咲き乱れるのどかな田舎町で、戦前は日本名で「初間」と言われていた。このブユークルイも古屯の攻防戦で戦死し、ソ連邦英雄の称号を得たブユークルイ軍曹の名を記念したものである。苗字を地名にしたりするのは日本人にはあまり馴染めない感覚であるが、ロシアでは多いようである。 |
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![]() 北緯50度線近くにあるソ連軍兵士の慰霊碑 |
![]() 日ソ平和友好の碑 |
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学生時代は山歩きをしていたが、山岳部員が必ずせねばならない事に天気図の作成があった。ラジオを聞きながら、各測候所の気圧、風向、風速、天候を記入していき、それを等圧線で結び、気圧配置を確認しながら天候を予想するのであるが、ラジオから流れる測候所の地名の中に「シスカ(敷香)」という名前があった。当時、ロシア語はまだ知らず、もちろんサハリンへ来た事も無かったが、「シスカ(敷香)」と言う名は、その後、何十年も僕の記憶の片隅に残っていた。 現在、敷香は露名でポロナイスクと言われ、サハリン中央部最大の町で、ポロナイ川(幌内川)の河口に位置しており、日本統治下の南樺太北部一帯の中心的な町だった。戦前、敷香には日本の製紙工場があり、終戦とともにソ連軍に接収され、製紙工場で働いていた日本人技術者の中にも工場の操業維持の為に抑留された人々がいたという話を聞いた。ポロナイスクは、この製紙工場、漁業、海運などを基幹産業にして発展してきた町だったようだが、その製紙工場へ行ってみると、工場の建物は残っているものの、半ば廃墟と化しているような有様だった。港湾設備もだいぶ古そうで、細々と継続されているのは漁業ぐらいのようである。市内を散策すると、ユージュノサハリンスクなどと違って、ほとんどのアパートの庭は全く手入れがされておらず、雑草が生い茂り、その中に野花が咲いていた。行き交う市民の表情もなんとなく暗そうで、人口は減ってきているようだ。天然ガスと石油の「サハリンプロジェクト」では、産出現場に近い町であるノグリキ、天然ガス液化プラントに近いコルサコフ(大泊)、各会社のオフィスが集中するユージュノサハリンスクなどは好景気に沸いているように見えるが、パイプラインの途中に点在する町々はプロジェクト景気からは取り残されているようであり、ポロナイスクもそうような町の一つかもしれない。 |
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ポロナイスク(敷香)で見かけた日本の製紙工場(日本人絹パルプ株式会社敷香工場)の廃墟。 マカーロフにも同じような日本の製紙工場があり、それも廃墟となっている。 |
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ポロナイスク(敷香)の近隣には中敷香(現・ゴンチャロボ)上敷香(現・レオニードボ)、下敷香(現・チフメーニェボ)など、敷香の名が付いていた集落もある。終戦時には逃げ遅れた多数の民間人も残っていたと想像される。戦後だいぶ経ってからもサハリンからの引き揚げ者は相次いだが、地元に同化し、ロシアの市民権を得て生きざるを得なかった人々も多かったのではないか。またサハリンへは多数の朝鮮系の人々も残留せざるを得なかった事を忘れてはなるまい。 現在、この近郊では北方から南方へ天然ガスや石油を輸送するパイプラインの工事が進められている。だが、肝心のプロジェクトは度重なる環境問題の告発、ロシア国営企業ガスプロムの参入、複雑な工事許認可などでその都度大きく揺れ、工期は遅れている。このサハリンプロジェクトは半世紀以上の恩讐の彼方に日露の新時代を築き、隣国同士が相互の理解を深め、互恵をベースにした新たな関係の象徴とも言える。だからこそ、プロジェクトにたずさわる者として、精一杯の努力は惜しまないが、僕ら「外人」から見れば、受け入れ国であるロシア側の努力、サポートに対する期待も大きい。いかなる国際プロジェクトも受け入れ国側の積極的な協力無しにその完成は難しい。 |
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2007年秋 Samovar・記 |
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