紀行
プーシキンスカヤ 旧国境地帯を訪れて
違法と合法 冷戦の記念碑
冷戦の記念碑

 ユージュノサハリンスクを南北に貫く国道を一路北へ向かうと小一時間ほどでオホーツク海が視界に開けてくる。そこはスタロドゥプスコエと言われる地区で、「栄浜村」と言われた日本の統治時代でも、その後のソ連時代でもサハリンでは最も潤った漁師町だった。今では市場経済の荒波にもまれ、小規模な沿岸漁業だけでは地元経済も大変なようだ。それでも毎年この辺り一帯の全ての河川には鮭鱒が遡上してくるし、近くを流れるナイヴァ川(旧「内渕川」)の河口付近ではカレイやホッケも獲れ、冬場は氷下魚やキューリウオの穴釣りのメッカとなり、漁業が主要な経済基盤である事は現在でも変わりは無い。
 このスタロドゥプスコエの海岸を通りかかったところ、遠方の浜辺に異様なものを発見した。まさかと思ったが、近づいて見ると、それは間違いなく戦車の砲身のようだった。

 何だか見てはいけないものを見てしまったような気分になったが、付近では多数の人々が釣りをしたり、ゴムボートを出して漁をしていたし、勇気を出してその戦車まで歩いてみた。


 それは戦車上の砲身付きの砲塔部分を取り外して設置したものだった。砲塔の下部はコンクリートブロックで固められた地下壕になっており、砲手はその中で砲弾の供給、射撃をする構造になっていた。

 よ〜く周囲を見渡すと、このような砲塔が数十メートル間隔で浜辺に並び、砲身は海側に向けられていた。これはどう見ても上陸しようとする敵を迎え撃つ目的で並べられたとしか思えなかった。戦後の荒廃したどん底から高度経済成長の流れに乗る事が出来た日本。その根底には平和憲法があり、他国を侵略した事は無く、侵略できるはずも無いというのが戦後の一般庶民感覚だろうし、当時のソ連にも外交や防衛のプロはいたはずで、その辺の共通認識はあったはずと思う。では日本向けでないとすれば何故こんな事に走ったのであろうか。答えは「アメリカとの冷戦」という事しか見あたらない。つまりこれらの戦車の砲塔は米軍がサハリンのオホーツク沿岸に上陸してくるのを想定し、米軍を迎え撃つ目的で並べられたものだと思う。戦争と言えばミサイルが飛び交う現代、浜辺に並ぶ冷戦時代の遺物はすでに錆び付き始め、誰にも注目される事も無く、まるで忘れ去られた存在のようである。しかし、これらの砲塔は撤去もされずに相変わらず浜辺に並んでいる。ロシアでは不要となったものが、行き場が無くなり、そのまま放置されている場合がある。


 市場経済へ移行したロシア、西側諸国との経済協力、技術協力で立ち上がったサハリンでの巨大な石油、天然ガスプロジェクト。ロシアも完全に資本主義経済に組み込まれ、世界の国々との協力無しには何も出来ない状況に変わってきた。そんな流れの中で、これらの砲塔群を見て、多くの人々は「我が国はなんと無駄な事をしたのだろう。」と言うのであろう。だが、過ぎ去ったロシア現代史の一ページで、米軍との正面衝突を想定し、ここに砲塔群を並べざるを得なかった重い現実があったのだ。今でこそ笑える事かもしれないが、人間はその時代時代で後の人々が呆れるような事を真剣に行う場合がある。現代史への警告として、僕にはここに残った戦車の砲塔の存在に記念碑的な価値を感じ、このまま残しておくのもまんざらではないと思えた。少なくともロシアのあちこちの町の広場に飾られた第二次世界大戦で活躍した戦車よりも意義がありそうである。

 この文章を書いてしばらくして、同じような事を思っている現地のロシア人がいた事に気が付いた。インターネットでサハリンの写真をながめていたら、この戦車の写真に行き当たったのだ。写真のタイトルは冷戦の記念碑だった。写真のほうはカメラも腕も僕より良さそうである。

Samovar・記