ウランウデ
2005年8月1 - 3日


ウランウデのレーニン像
 1974年の夏のある日、僕はウランウデにいた。もうだいぶ薄れてしまった記憶の中にあるのは、レーニンの巨大な頭だった。僕の記憶では、レーニンの頭は写真のものよりもっと地面に近いところに設置され、顔はもっと上向きだったと思う。それがずっと離れたところから見えた。おそらく近くに遮るような建物が無かったのかもしれない。遠くから見ると、大地に大きなボールが止まっているように見えた。近づくとそれが巨大な頭だけだったので、奇異に感じ、記憶に残っていたのだった。
今回見た像は確かに頭部だけであったが立派な高い台座に真っ直ぐ設置されており、抱いていた記憶のイメージとは違っていた。昔見たこの頭部の像は、もしかして出来たてのホヤホヤで、仮置きしていたものだったのかもしれない。



ウランウデ駅
ウランウデの紹介
ブリャート共和国の首都
モスクワとの時差は5時間
地理的位置は北緯51度50分、東経107度37分
町の礎をおいたのは1689年
市に昇格したのは1775年
ウランウデの以前の名称は、
1689年〜1775年の間がヴェルフネウジンスキー
1775年〜1934年の間がヴェルフネウジンスクと言われた。
 ウランウデはハマル・ダバン山系とウラン・ブルガスィ山系との間のセレンガ川右岸の盆地に位置している。バイカル湖から75km離れ、モスクワから東へ5532km離れている。町の南部をセレンガ川の支流であるウダ川が流れている。セレンガ川には船着き場があり、シベリア鉄道の基幹駅で、空港もある。

ロシア科学アカデミー
モンゴル、仏教および
チベット学研究所の
ヴァンチコワ博士と
シィルトィポワ博士

(お世話になりました。)



      町の歴史

1666年、エヴェンキやブリャートからヤサク(毛皮税)を徴収する為、ウダ川にコサック兵の越冬用の小さな砦が建設された。
1689年には本格的なウジンスキー砦が建設された。
1690年、ザバイカル西部地区の行政の中心となった。
西側から移動してくる人々にとって、ヴェルフネウジンスクはザバイカル地方の最初の町だった。そして当時の重要な拠点であったポソリスク、バルグジン、キャフタ、ネルチンスクへ向かう人々はこの町を通った。従って、馬車による運送業が栄え、ベルフネウジンスクでは一頭立ての馬車250台と二頭立ての馬車60台を同時に供給できた。19世紀の中頃は、馬車が主に向かう先はチタの砦とネルチンスクであった。
経済的に重要な役割を担っていたのは定期市であった。ヴェルフネウジンスクの定期市は1780年に始まり、毎年2月1日から3月1日まで、年に一度開催された。取り扱われた商品は、主に西の諸州から持ち込まれるロシア製品と、地物、及び外国製品だった。19世紀前半のヴェルフネウジンスクは、ロシアの他の町々と同様に、町人が多かった。19世紀初頭の人口は3196人だったが、そのうち町人が2708人だった。残りの人々は、貴族、官吏、職人、退役軍人、農民、コサックたちだったが、全体の10分の1強ぐらいしかいなかった。
ヴェルフネウジンスクの経済的、地理的に有利な条件が、この町をザバイカル地域の貿易の中心地にした。
1899年、ヴェルフネウジンスクにシベリア鉄道が開通した。
19世紀末のヴェルフネウジンスク定期市での取引高は200万ルーブルに達した。
1920年4月〜10月までの半年間、ヴェルフネウジンスクは極東共和国の首都であり、1921〜22年は極東共和国ブリャート自治州の中心だった。1923年からブリャート・モンゴル自治共和国の首都であり、1958〜92年の間はブリャート自治共和国の首都だった。現在はブリャート共和国首都。
1934年、ヴェルフネウジンスクはウランウデ(「美しいウダ川」)と改名した。(「ウラン」とはブリャート語で美しい(赤い)、「ウデ」はウダ川のブリャート語である。)


古文書館
この古文書館はモンゴル、仏教およびチベット学研究所が管理している。内部の古文書は、一定の温度、湿度で管理されていた。モンゴル語、チベット語、中国語等の貴重な古文書が多数保管されており、日本の先生方もかなり熱心に調査していた。

年度別の人口の推移 (単位:千人)

1897

8

1962

196

1979

300.3

1996

368.1

1926

28

1967

227

1982

315

1998

370.8

1939

125.7

1970

254

1986

342

2000

370.4

1956

158

1973

279

1989

352.5

2001

369.6

1959

174

1976

289

1992

366

2003

359.4


ホテル「サガアン・モリン」
隣に闇市風衣料品屋がある。


広葉樹や白樺の樹皮で
包んだ住居チュム





民族学博物館
エヴェンキ(以前のトゥングース)はタイガやツンドラを開拓した北方民族の一つである。現在では少数のエヴェンキのグループが、エヴェンキ民族自治区、クラスノヤルスク州、チタ州、ハバロフスク州、北バイカル、ブリャート共和国に住んでいる。ブリャートでのエヴェンキの人口は1700人で、ロシア全体では約25000人程度である。最近までエヴェンキは狩猟、トナカイ飼育、採集、漁労をしていた。弓矢、ワナ、槍を使い、しばらくして銃の使用が普及した。狩りの際には、トナカイやスキーに乗って移動した。

皮のなめし用具
様々ななめし用具が展示されていた。
エリユルゲ(上下にコロを回転させる皮なめし器)
ヘデルゲ(生皮の内薄膜を除去するツメ)
タリヒ(羊の毛皮なめし用具)

夏季用の小屋の中では「タラスン」という馬乳酒を醸造する鋳鉄器(トゴン)、穴のあいた木製の丸い蓋(テブテル)、冷却用に使用した水入りの木製の桶(キイベル)、冷却した蒸気を液体にする鋳鉄製の容器(タンハ)などが展示されていた。



高床式の食物倉庫








馬乳酒醸造器


八角形の冬季用の小屋
1898年にダラハイ・ザカメンスキー地区で建てられたもので、1973年にここの民族学博物館へ移された。このような小屋は山間部のタイガで生活するブリャート人が使用した。
側壁は11本の丸太で組み立てられ、床部分は、枕木の上に半分にした丸太が敷かれている。入り口は南に向けられていた。小屋の中央にかまどがある。屋根は薄板、樹皮、芝生などで被われている。ドーム型の屋根には柱が無く、様々な長さの板が互いに重なり合い、屋根を支えている。

ニコリスカヤ教会
ブリャートのムホルシビルスキー地区に20世紀初頭に建てられた。建物の側壁は23本の丸太で作られている。
1971年に民族学博物館の敷地へ移された。
内部には32のイコンが飾られた壁(イコノスタス)がある。


ヴェルフネウジンスクにあったロシア人の住居
窓やひさしの板には細かい彫刻がされている。

内部には当時の家具が並べられていた。
説明を読まないでしまったが、家の造り、家具調度品などから推察すると商人、官吏、地主など、裕福な家のようである。







シベリア流刑史から
1673年、ウクライナの領袖デミヤン・ムノガグレシヌイがザバイカルへ流刑になって以来、罪を咎められた官吏、コサック、農民などのザバイカル地方への流刑が始まった。
1704年、ネルチンスクで最初の銀山が操業開始して以来、ネルチンスクの鉱山では200年にわたり流刑者たちの強制労働が行われた。18世紀末にはザバイカル地方東部の農民は全員ネルチンスク鉱山へ住民登録された。モスクワからザバイカル地方の奥地にあるネルチンスクまで受刑者が送り込まれてきたが、受刑者の通過ルートには25露里おきに、エタープといわれた受刑者用の宿泊施設があった。ヴェルフネウジンスク(ウランウデの旧名)地区にもそのようなエタープが20カ所以上あった。
上の写真はそのようなエタープで使用した三部屋からなる小屋である。(ブリャート共和国ホリンスキー地区クリスキー村にあったものを民族学博物館へ移した。)
下の写真は小屋の中に展示されていた受刑者が使った食料や水をもらうための飯盒、身につけていた足かせ、桶やタライなど。

現在の町の様子

ウランウデの原宿通り(命名・Samovar)
花壇などが設けられ、車は入れないようにしてあった。
モスクワのアルバート通りにも似た感じだった。
ライブ演奏者のグループがいたが、立ち止まって聞く人はいなかった。

原宿通りで遭遇した学生の一団は明るかった。
町で見かけた劇場
こういうところでの出し物を見たかったが、又の機会にしよう。

クライミング施設で遊ぶ子供たち
大人たちがロープで確保していた。
郊外にある民族料理店を訪問した際、
その横にあったゲルの前に立つ民族服の男性

オイデ、オイデに促されて中に入ってみたら、土産物屋だった。これまた民族服に身を包んだ女性たちがいて、なかなか熱心に土産物を勧めていた。
ウランウデ市内で人気のモンゴルレストラン
中は客で混雑し、美味しそうな料理が多かった。
食べた料理を見たい方はここをクリックして下さい。

最近注目されているチャガ(カバアナタケ)で作った
シャーマン人形(シベリアではチャガを煎じて茶の代用と
してきたが、癌に効果があるとして人気が出ている。)