


約200年前に建てられた一番古い建物(入り口に五体投地用の板があった。)

建設中の新しい寺院
|
ブリャートにチベット仏教が広まったのは18世紀の事だった。露清間の国境に関する条約がキャフタで締結された1727年、ブリャートはロシアに編入された。
1741年、即位したばかりのエリザヴェータ女帝は、ブリャート地域でのチベット仏教の活動を認め、11カ所のダツァン(チベット仏教寺院(学堂))と150名のラマ僧を承認する勅令を出した。
1822年にはザバイカル地域のダツァンは20カ所に広がり、ラマ僧も2505名に増えた。記録によれば、1846年には34カ所のダツァン、144カ所の小寺院、4505名のラマ僧に拡大した。
ダツァンには学校があり、宗教教育だけではなく、文字、医学、歴史、芸術、天文学、哲学なども教えた。またこのような学校では修業者の体力強化にも時間がさかれた。
ブリャートには、チベット仏教と共にモンゴル文字が普及した。やがてブリャート人の文字となり、1936-37年頃まで使用された。
アギンスキーのダツァンは1811年に起工し、1816年に完成した。
四つの学部を有する仏教の学堂であり、様々な専門分野で若いラマ僧の教育が行われた。ほとんど全てのチベット仏教寺院には印刷所が設けられ、教典などが古代モンゴル語やチベット語で印刷された。それらの目録が現存しているのは47ダツァンのうち4ダツァンのみである。
1930年代の最後にダツァンは閉鎖され、ラマ僧は強制収容所へ送られた。1946年、ザバイカル地域ではイヴォルギンスキーとアギンスキーのダツァンだけが開設を許された。1990年代になり、仏教の復興が始まった。約20カ所でダツァンが復活し、仏教徒の六つの大きな行事が祝われるようになった。
ブリャート人の運転手に聞いたところ、ブリャート人には敬虔な信者が多く、そのような信者からの寄付が後を絶たず、新しい施設が次々建設されているとの事だった。
|



マニ車

大きな仏塔
|

写真はイヴォルギンスキー・ダツァンの全景
イヴォルギンスキー・ダツァン(ブリャート共和国ウランウデ市郊外)
|

マニ車


ラマ僧

主寺院

ラマ僧の住居
ゲルも建っていた
|
ウランウデの郊外にはイヴォルギンスキー・ダツァンがあり、ここも訪問した。ここがロシアにおけるチベット仏教徒の総本山だそうである。1946年建立のイヴォルギンスキー・ダツァンは、ウランウデから30km離れたベルフニャヤイヴォルガ村の近くにある。寺院に入る前に、マニ車を回しながら太陽が移動する方向に敷地を迂回しなければならない。道沿いに様々な形のマニ車があり、マニ車を回す事は何回もお経を唱える事に相当する。
ダツァンの主寺院は1972年に建立された。内部の中央には仏陀が祀られ、その下部にはダライラマ16世の写真が飾られている。宗教儀式はチベット語で行われるとの事。仏教儀式の他、医療、教育なども行われている。1991年、ダツァンにチベット仏教大学「ダシ・チョインフォルリング」が開設された。この大学では外国語、コンピュータ、仏教史、宗教儀式も授業科目に含まれている。毎日の学習プログラムには討論の時間もある。大学はロシア政府の正式な認可を受けており、今年の募集人員はロシア各地から110名の入学が見込まれているそうだ。敷地内を通りがかったラマ僧がいたので、ここのダツァンのラマ僧(先生)の数を聞いたら40人程度だった。
イヴォルギンスキー・ダツァンには古代ブリャートの工芸品、彫刻、宗教儀式に用いた品々が集められ、保管されている。
現在、ブリャート共和国内には4カ所のダツァンと27の小寺院があるそうだ。
ラマ僧は男性に限るという見方があった。しかし、1997年、女性仏教徒センターが開設された。1992年、ダライラマがブリャートを訪問した際に、そのようなセンターの開設を助言したのだった。ツィングエワ、ブダエフ夫妻の個人的な資金、およびブリャート共和国政府とウランウデの仏教徒の支援により女性信者の為のダツァン主寺院の建設が始まったそうである。
博物館があるというので、昼食後の開館を待って中に入ったが、中は外国の仏教教団から寄贈された品々が主体であった。日本から寄贈された観音像のようなものも飾られていた。
ダツァンの入り口付近には土産物屋が並び、けっこう商売熱心だった。ウランウデの観光名所でもあるようだった。
|

タルチョー


主寺院

寺院の内部

土産物屋
|
 |
 |
 |