チ タ
2005年7月28日、31日
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チタに滞在したのは実質二日間程度だった。 駆け足の見学となってしまったが、ザバイカル教育大学での会議、 歴史学部付属博物館の見学、マスコミへの対応、 デカブリスト記念館、軍事博物館、郷土史博物館などの見学をし、 極東共和国政府の建物を確認した。 短い時間ではあったが郊外で山野草の写真もカメラにおさめた。 |
![]() チタの中央広場に立つレーニン像 |
チタ市はチタ州の州都(北緯52度02分、東経113度30分) 1675年に建設(チタ市になったのは1851年) チタ市はモスクワから東へ6074km離れたザバイカル地方の中核都市であり、チタ川がインゴダ川に注ぐ河口地帯に建設された。鉄道と自動車道路の大きな拠点となっており、空港もある。チタ市から北西へ7kmのところに泥浴療養地「ウグダン」がある。 |
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![]() ホテル「ザバイカル」 ![]() 日本の捕虜が建てた建物 ![]() 歴史学部付属博物館の展示品 |
7月27日から28日にかけての深夜、僕らの列車はチタ駅に到着した。深夜にもかかわらず出迎えに来て下さったザバイカル教育大のワシーリエフ先生がホテルまで案内してくれた。 ホテルは駅から近く、チタの中央広場の一角にある「ザバイカル」だった。 7月28日の朝食後、ザバイカル教育大へ向かった。大学はホテルから近いので歩いて行く事になり、ワシーリエフ先生が案内して下さったが、彼は途中にあった大きな建物を指さし、「これは日本の捕虜が建てた建物で、質が良く、今でも立派に機能しており、市民にも好評です。メイド・イン・ジャパンは流石です。」と言って、ニコニコされていた。思いがけないお話に、何と答えたらよいのか躊躇してしまった。 大学では副学長のカタナエフ先生、歴史学部長のクズネツォフ先生、動植物学者のコルスン先生などと挨拶を交わし、スケジュールの確認などをしたが、冒頭から地元のマスコミがTVカメラを向ける中でインタビューを受ける事となってしまった。 その後、歴史学部の建物へ移動し、付属の歴史博物館を見学した。展示品の多くはシベリア開拓史に関係するものであった。また1825年にロシアを揺るがした「デカブリストの乱」に連座し、シベリアへ流刑となり、その後この地方へも少なからぬ影響を与えたデカブリストたちの資料も多数展示されていた。 (「デカブリスト」に関してはウィキペディアに詳しい説明がある。) |
![]() ホテルの前に展示されたロシア製の車には「賞品」と書かれていた。どうやら宝くじの一等賞のようだった。 ![]() ザバイカル教育大 |
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(この日の午後、僕らはマイクロバスでネルチンスクへ向かい、再びチタへ戻ったのは30日の夕暮れ時だった。広場に花火が上がり、多数の人々がビールを片手に歩いていた。この日はチタのビール祭で、無料ビールが配られたとの事。広場に面して「ザバイカル軍管区司令部」の建物があったが、中露関係の緊張はだいぶ緩和され、インターネットでは軍管理の不動産資産の売買も行われているようであり、屈託のない若者たちの笑顔をながめ、時代の流れ、変化を感じた。チタへ戻ったこの日の記憶は薄れてしまったが、ビール祭の記憶だけが残っている。以下はネルチンスクから戻ってからの様子である。) |
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![]() (チタ郷土史博物館) ![]() シャーマン (チタ郷土史博物館) ![]() ブリャートのユルタ(ゲル) (チタ郷土史博物館) ![]() ブリャートの衣装 (チタ郷土史博物館) |
8月31日、真っ先に向かったのはチタ州郷土史博物館だった。 最初のコーナーには大型動物の剥製が展示されていた。ヘラジカ、オオカミ、オオワシ、クマ、ヤマネコ等の他にトラもいた。この地方でトラは珍しいそうであるが、このトラはだいぶ前に捕獲されたとの事。 17世紀頃のザバイカル地方の人々 17世紀のザバイカル地方にはツングース・満州語グループに含まれるエヴェンキが住んでいた。彼らはこの地方の草原や森林ステップにいたモンゴル語系部族の影響を受けていた。ザバイカル地方南部には様々なモンゴル語部族が住みついており、彼らは結果的にブリャート民族を形成した。現在ではブリャート人は自主管理の領地を所有している。 17世紀中頃にザバイカル地方に進出したロシア人は、主としてロシア北部の出身者、ウクライナ人、少数のポーランド人などであり、この地にスラブ人の住民が増えていった。これら初期開拓者たちは、のちのザバイカル地方の定住民たち、つまり「シベリアっ子」たちの基盤を築いた。17世紀から20世紀にかけて、自由および強制的な未開地開拓であったロシアの移住政策や流刑地での強制労働の結果、この地方への(シベリア)入植民形成のプロセスが進んだ。 このプロセスにはタタール人、ユダヤ人、ドイツ人、コーカサス地方やバルト海地方の人々も参加した。しかし入植者たちはスラブ系の人々が大半であり、ロシア人が多かった。 エヴェンキ(古い名称ではツングース)はツングース満州語グループに含まれる人々である。エヴェンキの人口は多くはなかったが、17世紀にはシベリア全土の4分の1の地域で生活し、シベリアの全ての地勢を把握していた。チタ州でエヴェンキは、北方の山岳タイガ地帯と南方の草原・森林帯の二地域に住んでいた。北方のエヴェンキは狩猟とトナカイの飼育をし、南方のエヴェンキは家畜の遊牧をしていた。18世紀から彼らの一部分は国境警備を担当していたコサック軍団に加わった。南方グループにはエヴェンキ、及びガンチムール公に従っていたダウリヤの部族が含まれる。1750年から1851年にかけて、ガンチムール公はエヴェンキ系コサックの管理もおこなった。 北方のエヴェンキは、この地方の難しい自然条件に順応し、何世代かの間にエヴェンキ社会の全ての要求を満たすユニークな生活形態を構築した。エヴェンキは移動・定住生活に適した総合的な狩猟・漁労・トナカイ飼育の経済形態を行っていた。 遊牧は自然のサイクルに従い、狩猟、漁労、牧畜に適した定住地を経由し、既知のルートを通過して行われた。 チュム(エヴェンキ語でジュ)とは円錐形の移動住居である。白樺の樹皮、樹木などが利用された。チュムの中央にはかまどがあった。入り口(エヴェンキ語でウルケ)付近に生活用具(エヴェンキ語でチョナ)が置かれ、その隣が主の席であった。 かまどの左右に家族が座った。入り口の反対側は客人(エヴェンキ語でマル)の席だった。 |
![]() (チタ郷土史博物館) ![]() シャーマンの装身具 (チタ郷土史博物館) ![]() エヘヴェンキの円錐形移動住居 チュム (チタ郷土史博物館) ![]() エヴェンキの様子を伝える写真 (ネルチンスク郷土史博物館) ![]() 17世紀のチタ州での入植ロシア人と原住民の分布図 (チタ郷土史博物館) |
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![]() 典型的なロシアの砦 (チタ郷土史博物館) ![]() デカブリスト記念館 ![]() この地に流刑された デカブリストたち (デカブリスト記念館) ![]() 極東共和国政府の建物 『この建物に1920年から1922年まで極東共和国政府があった』と入り口の銘板に記載されていた。 (現在は法務省管轄のチタ州登記所になっていた。) |
歴史情報 1653年、探検家ピョートル・ベケトフはコサック部隊を引き連れ、チタ川の河口に越冬用のインゴジンスク砦を建設した。この場所に最初のロシア人入植者が現れたのは1675年以降である。1687年まではスロボダ(Sloboda)という地名であった。 1699年、チタ砦が建設され、1821年からはチタ村となった。ここへデカブリストたち(注1)が流刑された。1851年からチタは市に昇格し、ザバイカル州の中心となり、ここにザバイカルコサック軍団の司令部がおかれた。 (注1): 1825年12月14日に体制打倒に蜂起した革命的貴族たちの反乱で、事件があった「12月」をロシア語で「デカブリ(декабрь)」と言うことから、この革命的貴族集団はデカブリスト(12月党員)と呼ばれた。 『誰が人に、他の人を自分の所有物とする権利を与えたのか?ある人の体、財産、その生命さえも、何の権利があって、別の人に属するというのか?自分と同様な人々を売買し、交換し、賭けの対象にし、贈り物にし、虐待するこの法律はどこから出てきたのか?粗野、狂暴凶悪な無知、下劣な激情と非人間性の源からではないか?(デカブリスト・詩人ラエフスキー)』今では極めて当たり前で、普遍的なラエフスキーの思いも、ロシアに農奴と呼ばれた奴隷がいた当時、権力者には危険な思想でしかなかった。 チタ川(エヴェンキ語でチタとは「粘土」を意味する)の名称は、特に下流の河口地域が軟泥粘土質の沖積土からなっており、チタ盆地の土壌の実質的特徴を反映させている。 1900年に鉄道が敷設されてから、チタはザバイカル地方の最大の輸送拠点となり、産業の中心となった。 (ロシア革命以前のこの時期、チタには約4000人程度の日本人もいた。) 1920−22年の間、極東共和国の首都であった。 (極東共和国に関しては齋田章さんの「ロシア革命の貨幣史」に説明があり、分かり易い。) 1922年からはザバイカル州の州都であり、1926年からは極東地方の周辺都市となり、1937年からチタ州の州都となった。 (終戦後、チタには日本人捕虜が約7万7千名いた。(ロシアに抑留された捕虜の約12%)) |
![]() 1830当時のチタ (デカブリスト記念館) ![]() デカブリストの乱 (デカブリスト記念館) ![]() デカブリスト記念館の キオスクのおばさんたち ![]() この建物も極東共和国政府の建物だったとの事 |
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![]() ギリヤーク人 (チタ郷土史博物館) ![]() ロシアを感じさせる郊外の白樺林 |
ギリヤーク人 支流も含めたアムール川の全流域を支配していた時もあったが、アムール川の河口やサハリンへ追いやられた。彼らは魚類学にたけた人々で、主要な仕事は漁業であり、二番目は海獣の捕獲だった。彼らの生活様式、社会は西側文化の影響下で崩壊している。ギリヤーク人の現在の人口は3000人以下になっている。(アルセーニエフ)(チタ郷土史博物館) ゴリド人 ウスリー川とアムール川の支流であるエヴォロン川までのアムール下流域の住民である。言語学的にウスリー川地域のゴリドはアムール流域のゴリドと幾分違いがあるものの、両者ともモンゴル・満州語族に含まれ、比較的近年に満州族から分かれた人々である。ゴリドは夏には漁労をし、冬には狩猟とクロテン飼育をする。アムール流域の他の原住民同様に、絶滅の危機に陥っている。人口総数は3000人を下回る。(アルセーニエフ)(チタ郷土史博物館) |
![]() ゴリド人 (チタ郷土史博物館) ![]() やぱりあった第二次世界大戦で大活躍した戦車T38 (第二次世界大戦ではチタ州から約17万5千名が出征し、うち約5万5千名が帰らぬ人となったそうだ。) |
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