樺太と言われた時代の残像 | ||
サハリンは戦前までは「樺太」と言われ、その南半分(北緯50度以南)は日本の領土であり、日本の統治下にあった。終戦の数日前に当時のソ連軍が国境を越えて侵攻し、樺太は「サハリン」となり、現在はソ連を受け継いだロシアの実効支配下にある。このサハリン島内を移動すると、日本時代の遺物がまだあちこちに残っており、それらの遺物に接すると大陸側のロシアの町々とは違った印象を受ける。 |
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旧豊原公園王子ヶ池に残る石碑 ユージュノサハリンスク市の東側にガガーリン記念公園がある。戦前の豊原公園であり、敷地はかなり広い。公園内にはテニスコート、サッカーの出来るスタジアム、ゴーカート広場、数十種類の遊戯設備が並ぶ遊園地、園内を大きく周回する子供鉄道の列車(子供鉄道ながら切符が発券され、一般の鉄道のような対応をしている)、そしてその園内には池があり、市民はボート遊びをしたり、池の周囲に設けられた焼肉店などでビールを飲みながら憩いのひと時を過ごす。 この池の周りを散策していた時の事だったが、偶然に石碑を発見した。石碑は地面に横たわり。ヒビが入っていたが、「王子ヶ池」とはっきり読み取れる文字が刻まれていた。(右の写真) その石碑から近いところには日本庭園に似合いそうな松があり、少し離れて桜の木があった。 |
![]() ひび割れた石碑 |
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![]() 植生された松 |
![]() 池に流れ込む川 |
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あとで調べてみるとこの池は王子製紙が造った池であり、ここから製紙工場へ産業用水として水を引いていたようである。池には二本の川が流れ込んでいる。 手持ちの古い写真を見ると、当時もボート遊びをしていたようで、着物姿の日本人たちが憩いでいる様子がうかがわれた。(右の写真) 時代が変わり、人が変わり、社会体制も変わったが、公園は当初からの理念を今も変えぬまま、変わりゆく時代の生き証人になっているような気がした。 |
![]() 戦前の王子ヶ池 |
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耐え続けたヤポンスキーモスト「日本橋」 ユージュノサハリンスクから国道を北上して行くと、マカロフ(旧・知取町)という町があり、そのマカロフの手前にポレーチエという寒村がある。古い地図にあたってみたところ、現在のポレーチエは旧・南遠古丹ではないかと思う。この寒村はレスナヤ川がオホーツク海へ流れ出る河口に位置し、レスナヤ川には通称ヤポンスキーモスト「日本橋」という古い橋が架かっている。戦前に架けられた橋だが最近までこの辺の唯一の橋として戦後65年たっても貴重な橋であり続けた。耐用年数はだいぶ前に過ぎており、幅4mの橋上では車が交差する事もままならなかった。しかし行政の予算には限界があり、建てかえが必要な事は理解の上で、継続使用を余儀なくされていた。 |
![]() 戦前の日本の橋はまだ現役 |
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僕も何十回も行き来し、お世話になった「日本橋」だが、誰もこの橋の本当の名前を知らなかった。橋のたもとには橋の名前があったはずだが、その名前のあったあたりが削り取られていた(左の写真)。戦後のある時期、日本の痕跡を抹消するために日本に因んだものを撤去させた事があったそうだが、この橋の名称を削り取り、ソ連が建設した橋としたかったのだろうか。名を失った橋は、幸いにも地元ではЯпонский мост(日本橋)と言われ続け、だいぶ前に耐用年数を過ぎながら、サハリン南端のコルサコフから北端の町オハまで、サハリンを縦断する大動脈の重要な一端を担ってきた。 |
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鮭鱒の遡上シーズンにはこの橋から釣り糸が垂らされ、最適な釣り場ともなる。(右の写真) やがて2007年末、この日本橋が長年の激務から解放される時が訪れた。 石油・天然ガスのサハリンプロジェクトの建設が始まり、建設資材の輸送インフラを急ぎたいサハリンエナジー社が建設費を全額負担し、日本橋に代わる近代的な橋の建設に着手していたが、それがやっと完成したのだった。新しい橋はもっと海に近いところに護岸工事をしたうえで架けられた。 耐えに耐えた名も無き日本の橋よ、ご苦労様。 |
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マカロフ(旧・知取町) 1)製紙工場 マカロフという町は戦前では樺太敷香支庁元泊郡にあった知取町である。 大正13年に富士製紙落合工場(現・ドリンスク市)の姉妹工場として富士製紙知取工場が知取川(現在のマカロワ川)北岸に建設された。知取町はこの製紙工場によって東海岸最大の工業都市となり、1941年の人口は1万8千人を超えていたようである。 この製紙工場を訪れてみたが、工場は完全に廃墟状態になっていた。 初めてこの工場を見た時は、すでに日本の所有物でもないし、戦前の古い建物とは言え、そのあまりの荒廃の激しさにとても悲しい気分になったものである。 現在のマカロフの経済基盤は漁業と森林伐採業のようだが、製紙工場が消滅してしまった事もあり、いつもお世話になっている「ニジェガローツキー・ドヴォール」のロシア人口情報によれば、現在のマカロフの総人口は半減しているようだ。 通りを歩いてみたり、商店に入り、住民の様子などを垣間見たが少し元気が無さそうだった。市内には小さなホテルが一軒あるだけだが、ユージュノサハリンスクなどの都会のホテルと比べると、食事もサービスも比較にならないほど良くない。 |
![]() 廃墟と化していた富士製紙知取工場 |
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![]() 現在のマカロフ |
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![]() 慰霊碑に付いていた日本語のプレート |
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2)慰霊碑 こんなマカロフの町を歩いていたら、上の写真のような日本語で刻まれたプレートが付いた慰霊碑を発見した。 これは何だろうと思い、もっと近づいて読んでみた。そのプレートには日本語で次のように刻まれていた。 樺太公立知取第一国民学校殉難者 学校火災 昭和18年11月24日 そして火災で亡くなったと思われる 23名の生徒の氏名が記載されていた。 23名もの生徒が焼け死んだ大惨事の犠牲者の慰霊碑だった。 僕も思わず哀悼の念をこめてお辞儀をした。 この慰霊碑の後ろに火災にあった学校があったようだが、その後、建物は再建され、現在はマカロフの公立学校として機能しているようだった。 日本人には近くて遠くに感じるサハリンだが、地方の小さな町であるマカロフにも日本人が生活していた証(あかし)があった。しかし、その証は痛ましい記憶を呼び起こす慰霊碑だった。 |
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3)知取神社 日本時代の建物があったというマカロフの町を見下ろす高台に登った。建物はもう無くなっていたが、基礎は残っていた。後で調べてみると、ここには知取神社があったようだ。 基礎の形はユージュノサハリンスクにある樺太神社の基礎跡と良く似ていた。こういう基礎様式を権現造というようだ。 歴史を紐解いてみると、1945年8月22日、このマカロフで日ソ停戦協定が成立したそうだ。(実際には戦闘は終結せず、同月末まで継続したとの事) その当時、このマカロフ周辺ではソ連軍が誇ったT34型の戦車群がキャタピラの音を鳴り響かせて進軍して行ったのだろうか。 それから63年、時代は大きく変わり、このマカロフ地区でも石油、天然ガスのパイプラインが埋設され、日本が誇るKomatsu, 日立、KATOなどの建機群がキャタピラの音をきしませながら、最後の難工事に立ち向かっていた。 |
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![]() LNGプラント遠景 |
プリゴロドノエ(旧・大泊郡深海村女麗) サハリン2プロジェクトは産出される天然ガスを液化し、その液化天然ガスを輸出するプロジェクトであるが、海上(大陸棚)での天然ガスの産出、その産出された天然ガスの液化プロセスなど、ロシアにとっては初めてとも言える画期的な技術が多いプロジェクトだったと思う。このプロジェクトの要とも言える液化天然ガス(LNG)プラントはアニワ湾に面するプリゴロドノエ(旧・大泊郡深海村女麗)に建設された。もう雪が降ってもおかしくはない晩秋の11月中旬、この液化天然ガスプラントの全景が見たくなり、たまたま通った道路のそばの小高い丘に登った。そしてこの丘の上で倒壊した日本の記念碑を偶然に発見した。その倒れた記念碑には「日露戦役樺太遠征軍上陸記念碑」と刻まれていた。 |
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![]() 記念碑の台座部分 |
![]() 倒壊した記念碑 「日露戦役樺太遠征軍上陸記念碑」と刻まれていた。 |
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日露戦争での日本海海戦でバルチック艦隊の壊滅後、ロシアでは後のロシア革命へと続く国内の混乱、そして長期消耗戦は避けたい日本の思惑で講和への模索が始まった。その講和談判を有利に押し進めるために日露戦争の終盤に実施されたのが「樺太作戦」だった。日本軍は1905年7月7日にアニワ(亜庭)湾に上陸を開始し、続いて7月24日には北樺太の要衝アレクサンドロフスク近郊にも上陸した。樺太のロシア側司令官リャプノフ中将は7月31日に降伏勧告を受け入れ、日本軍は上陸後一ヶ月足らずで樺太全島を攻略した。その後の8月10日から始まった日露講和会議で、樺太の北緯50度を国境とし、その以北をロシアへ返却する事が決定された。(ポーツマス条約) 短期間で樺太全島を制圧し、その既成事実を背景にして日露交渉に臨む事が出来た当時の日本にとって「樺太作戦」は効率の良い軍事行動だったようだ。その樺太作戦で最初に日本軍が上陸した場所に建てられたのがこの上陸記念碑だったのだ。 更に1934年12月にはこの大泊郡深海村女麗から北海道猿払村まで海底電話線ケーブルが敷設されている。戦後、この海底電話線ケーブルは切断されてしまったようだ。プリゴロドノエ(女麗)は日本軍上陸開始の地であり、海底電話線ケーブルの入り口だった場所であり、そして現在ではLNGプラントが建設されており、歴史の因果のようなものを感じてしまう。 |
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ブズモーリエ(旧・白浦) 現在のブズモーリエはサハリン島を南北に縦断する国道沿いの小さな町である。ここでは国道沿いに小さな雑貨屋、日用品店、食料品店があり、北へ向かうにしろ、南へ向かうにしろ、この先一時間ほどは人家も見あたらなくなるので、たいがいの運転手はここで車を停めて小休止をする。近くにはサハリン2プロジェクトの石油・ガス用パイプラインが埋設されているものの、それと関連した産業があるわけでもなく、町を支えているのは小規模な漁業だけのようである。そのためか、ここの露店は住民の貴重な現金収入源であり、街道を行き来する人々には、ここのカニなどの水産物や夏季のキノコやベリー類はよく知られた存在である。時にはジプシーの連中が地面に敷いたシートの上に衣料品を並べて売っていたりもする。僕の車も行き来するたびに停車し、運転手はタバコを吸い、僕は中国製の魔法瓶に入ったインスタントコーヒー(一杯40円程度)を買って飲んだ。商売しているのは女性たちばかりで、露店の商品はほとんどが乳母車の上に並べられていた。何度も行き来しているうちにその女性たちとも知り合いになり、そのうちの一人が日本人とのハーフだというのがわかった。その人の説明で、近くに日本の鳥居がある事がわかり、その鳥居を見る事にした。 |
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鳥居は石造りの立派なものだった。入り口に向かって右側に『奉献 皇紀二千六百年記念』、左側には当時の地元の有力者で、これを建てた人ではないかと思われる『柳家武雄』さんという名が刻まれていた。 | ||
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鳥居の中をくぐり抜け、奥へ進むと左の写真のような土台があった。神社があったと思われる場所には野草が生い茂り、歩く事さえままならなかったが、さらに注意して周囲を見たところ、上記の写真のようなものを見つけた。ここにあったはずの神社に使用されていたものと思われる。 |
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![]() ここでは日本統治下の樺太時代に因んだ話題を掲載中ですが、 この過程で「樺太に見るもうひとつの日本」という興味深いホームページの存在を知りました。 相互リンクでお世話になっている「ニジェガローツキー・ドヴォール」の管理人さんがまとめたものです。 サハリンへ外国人が入れるようになった頃(20年ぐらい前)の貴重な写真が並んでいます。 ![]() |
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