
セヴァン湖を訪れた学生グループと |
セヴァン湖は古代には『ゲガム海』と言われており、世界の中でも屈指の大きな高地湖で、広さはおよそ1400km2である。(セヴァン湖は琵琶湖(670km2)の2倍以上の広さである。)セヴァン湖へは20もの川が流れ込み、セヴァン湖から流れ出る川は唯一ラズダン川だけであり、この川にアルメニアで最初の水力発電所が建設された。セヴァン湖はフォレリ(昔は現地語でイシハンと呼ばれたニジマス科の魚)でも有名であるが、天然ものは資源量が少なくなり、流通しているフォレリでは養殖ものが圧倒的に多い。
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2003年の夏、僕はこの地を訪れた。セヴァン湖は標高1916mの高地にあり、湖畔の日差しは強く、湖水は冷たかった。湖を見渡せる高台で学生の一団と遭遇し、一緒に記念写真を撮った。
若者たちの表情には幸せと明るさを感じた。
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9世紀に建立された修道院 |
湖畔を見下ろす半島の高台に9世紀に建立されたという修道院があった。建設当時のセヴァン湖の水位は高く、湖に突き出たこの半島の高台は島になっていたそうだ。この修道院の建設資材も舟で運ばれたのだろうか。僕が訪問したこの日は快晴の日曜日で、多くの観光客が訪れていた。観光客の中にバスを連ねてやって来たというグルジア人のグループがいた。アルメニアの寺院を巡る旅に参加した人々だった。話をしたグルジア人はシベリアで炭坑夫をしていた人、バスの運転手、機械工、農夫だった。みな純朴で控えめであり、誠実な印象を受けた。たくましい顔つきとごつい体格の彼らを異国への巡礼の旅へ誘った動機は何だったろうかと少し気になった。
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修道院の中で |
修道院の中は薄暗く、片隅で数十本のロウソクの赤い炎が輝いていた。来訪者は入り口でロウソクを買い、神に祈りを捧げ、あるいは故人を偲び、大きな燭台にロウソクを立てるのが慣習のようだった。この日、僕が修道院の中に入ったときは、何故か内部がとても華やいで、明るく感じられた。あちこちで女学生たちの賑やかな声が響いていたのだった。左の写真は教会とか神社とか、神様の近くでは神妙になってしまう日本人が底抜けに明るかったアルメニアの女学生の一団に囲まれた写真である。 |
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浜辺のテントで昼食 |
高台から浜辺へ降りたら、また先ほどの学生らの一行と遭遇した。テントに呼ばれて焼き肉をご馳走になり、一緒にワインを飲んだ。学生たちとは親子ほどの年齢差があり、知り合ったばかりだというのに、暖かくもてなされ、感激した。その時にセヴァン湖にまつわる伝説を聞いた。『その昔、半島が島だった時、美しい娘がその島に住んでいた。娘は対岸の浜辺に住む若者と愛し合っていた。娘は合図の灯をともし、若者は舟で島を目指した。そんなある荒天の日、島へ向かった若者の舟が転覆し、美しい恋物語が終わってしまった…』という悲劇であった。
この学生たちはキロバカン薬科大学のグループだった。キロバカンと聞いて、1988年のアルメニア地震(死者25000人)が思い出された。地震での崩壊後、新たな建設で町は大きく復興したが、まだバラック住まいの人々もいるそうだ。
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またいつの日にか・・・ |
修道院のある岬の突端へ向かって歩いた。そこからの展望が楽しみだった。岬の突端に近づくと迷彩服姿の警備員らしき人が現れた。『ここから先へ行ってはならない。ここには大統領の別荘があるのだ。』と言って、手を振りながら『戻れ』の合図をした。快晴の空の下の広いセヴァン湖、澄んだ空気と歴史を感じさせる古い修道院、この国の未来を暗示するかのような学生たちの明るさ、この日のそんな一連の流れに少し水を差された気分になった。ここからのセヴァン湖の絶景は大統領だけの特権なのか、と思いつつ、修道院の方へ戻る小道で左の写真のようなものを目にした。それは日本の神社で見かけるおみくじを結んだ風景によく似ていた。近づいてみると、おみくじではなく、小さな布切れである。後で聞いてみたら、それは『またいつかこの地を再訪出来る事を願って結んだ布切れ』だった。再びローマに来る事が出来るよう、噴水にコインを投げこむのと同じような意味合いである。
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