シベリア鉄道


シベリアの夏は短い。プラットーホームの横ではコスモスが満開だった。

 1974年の夏、僕はシベリア鉄道の乗客になっていた。船で横浜からナホトカへ渡り、そこからシベリア鉄道でイルクーツクへ向かったのだった。当時の国際情勢、ロシアの国情などもあり、市場原理とかけ離れたロシア人の大らかさ、そして一方では外国人に対する根強い警戒心なども感じられたものだった。
 あれからもう30年以上の歳月が流れたが、ソ連がロシアになり、シベリアの人々の様子はどうなのか、今回はその確認をしたい旅でもあった。
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ハバロフスク駅
(シベリア鉄道でモスクワから8523km)
1897年、ハバロフスクとウラジオストックは鉄道でつながった。
1916年、アムール川に鉄橋が架かり、ハバロフスクは東シベリアとつながった。
1940年、ハバロフスクはバラチャーエフカ駅経由でコムソモリスク・ナ・アムーレとつながった。


駅の構内には列車の時刻表や列車が何番線のプラットホームへ到着するか等の案内板らしきものが見あたらなかった。お目当ての列車がどのプラットホームへ到着するかは、到着予定時刻の10分ぐらい前に場内放送されるとの事。どのプラットホームへ向かえば良いのか不明なまま、地下通路の中央付近で案内放送にじっと耳を傾けた。やがてスピーカーからプラットホーム番号のアナウンスが流れ、乗車する人々の一団が動き出した。
プラットホームとレールの高さはほぼ同じである。何号車がどの辺りに停車するのかの標識は無く、プラットホームには白線がしかれているだけだった。ハバロフスク駅などの基幹駅では、列車は20〜30分ぐらいは停車する。そのためか、列車の到着を確認してから行動しても間に合うようであり、乗客たちに慌てた様子は見受けられなかった。
シベリア鉄道では乗車切符の確認は改札口では行わない。というか、駅に改札は無く、誰でもが自由にプラットホームまで入る事ができる。各車両に専属の車掌さんがおり、乗客が列車に乗り込む際に車掌さんが切符を確認する。
車掌はアゼルバイジャン人の小柄な男性車掌だった。(左側の小柄な人)



オブルーチエ駅
シベリア鉄道でモスクワから8190km、1981年に電化
ユダヤ自治共和国にある駅で、ハバロフスクから鉄道で5時間半
鉄道関連の産業、ミルク工場、パン工場などがある。
人口は11,600人(1998年現在)

各駅での停車時間は比較的長く、この時に車両から外へ出て背伸びをしたり、タバコを吸ったりする人も多いが、行商人や地元のおばさんたちが手作りの食品を並べたテーブルを眺め歩くのも旅の楽しみである。一日数本の客車の往来を待って、列車に挟まれたプラットホームには簡易キオスクが設けられる場合もある。
ピロシキ(肉や野菜などの入った揚げパン)、ワレーニク(野菜やカッテージチーズなどの入った水餃子風のもの)、ホッケの薫製、イチゴ、黒スグリ等を買ってみた。これにハバロフスクで買ってきたハム類やパン、ジュース、ビール等を交えて食事をした。一流レストランのシェフの料理のほうが断然美味しいはずであるが、こういう旅で買ったものは何だか掘り出し物を見つけたような気分になり、美味く感じてくるから不思議なものである。



ベロゴルスク駅
ハバロフスクから鉄道で11時間、モスクワからシベリア鉄道で7866km、
この区間は1983年に電化された。
ゼヤ川の支流であるトミ川のほとりに1860年にアレクサンドロフスコエ村
として建設され、1926年から市となった。人口は1999年現在で74500人




この駅では停車時間が30分もあった。とりあえず駅の外へ出てみた。改札口も無く、出入り自由なのは、こういう場合には便利である。

駅の外には野菜や果物を中心とした小さな市場があり、列車の乗客も顔を見せていた。

アムール州の州都であるブラゴベーシェンスクへ向かうには、ここからシベリア鉄道の支線へ入る事になる。
二年ほど前に、僕はそのブラゴベーシェンスクから車でベロゴルスクの町へやって来た事があった。その時の景色を思い出しながら、駅前の通りをながめたが、残念ながらその時の風景と重なるものは見いだせなかった。






エロフェイ・パーヴロヴィッチ駅
ハバロフスクから24時間、モスクワからシベリア鉄道で7111km
1934年に建設された。操車場がある

エロフェイ・パーヴロヴィッチとはロシアのシベリア開拓史で有名なハバロフの事であり、その姓を冠したハバロフスク市は有名だが、この小さな町には彼の名前と父称が付けられている。
まだ朝が早いためか、プラットホームには行商人や食べ物を抱えた地元のおばさんがたなどは皆無だった。開店中のキオスクがあったが、出来たてホヤホヤの食べ物などは無かった。ここはアムール州で急行列車の停まる最後の駅であり、次に停まるアマザール駅はチタ州となる。

車窓からながめる風景は何時間経っても同じようだった。白樺林、草原、川、赤、黄、青の野花。ただし、車窓の窓ガラスがかなり汚れており、カメラから窓ガラス越しに外をぞいたら風景の汚れが目立って写真を撮る意欲を失った。



アマザール駅
ハバロフスクから26時間、モスクワから7004km
1988年に電化された。
2002年度の人口は26000人

アマザール駅はアムール州からチタ州へ入って最初の駅だった。
ノヴォシビルスクをめざしていたお婆さんとお孫さんのカップル
塩漬けキノコが売られていたが、このキノコの安全性に確信が無かったので買わなかった。
列車はしばらくアマザール川と平行に続く鉄路を走った。(アマザール川はアムールの支流であり、シルカ川とアルグン川の合流点よりも少し下流のところでアムール川に流れ込んでいる。)



モゴチャ駅
ハバロフスクから鉄道で28時間、モスクワからシベリア鉄道で7866km
この区間は1988年に電化された。1998年現在の人口は15500人
町は1910年に建設され、金採掘の町だった。
モゴチャとはエベンキ語で「黄金の盆地」



特別なものは何も無い平凡なシベリアの駅であったが、長旅で疲れた乗客たちは、車両から降りて外の空気を吸い、背伸びをし、短時間でも散策し、「列車エコノミー症候群」とでも言うべきものから身を癒していた。





独ソ戦でモゴチャから出征した兵士の慰霊碑には多数の花がそえられていた。

お人形さんを抱えた元気なお嬢ちゃん





チェルヌイシェフスク駅
ハバロフスクから鉄道で33時間半、モスクワから6587km
1938年にアギタ川とアレウル川の合流点に建設
2003年現在で人口は13000人



ロシアの「革命的民主主義者」、哲学者、経済学者であり、ナロードニキ運動の創設者の一人であったニコライ・ガヴリロヴィッチ・チェルヌイシェフスキー(Николай Гаврилович Чернышевский)の名前の町。
駅の建物に入ってみたが、待合室、切符売り場、テレビゲーム室等があり、薬局は閉まっていた。美味そうなものが売られているわけでもなく、外のアイスクリーム屋には列車の乗客が群がっていた。


食堂車


座り心地はまあまあ。


食堂車の窓から見えたロシア教会。
周囲に人家は皆無であり、廃村となった村の教会がそのまま残っているのであろうか。


列車には食堂車があったが、食べに来る乗客はほとんどいないようだった。
高い料金がネックになっているとはわかっていたが、どんなものか体験してみるのも悪くはないと思い、チタ到着前に食堂車に入って夕食をとってみた。
スープに鶏肉料理という普通の夕食にビールを付けてもらったが、7名で3600ルーブル(約14400円)だった。日本なら高いという感じはしないかもしれないが、僕にはとても高く感じられた。ハバロフスク出発の前夜、7名の二日分の食料品、水などをマーケットで購入したが、支払った金額は1200ルーブル程度(約5000円)だった。一回の夕食がその三倍の金額だったわけで、どうも無意識のうちにその金額と比較していたようだ。

(1974年の時、食堂車のコックが僕が日本人だとわかったら、「君は僕らのお客だから」と言って、食事代を請求しなかった。土産物も使い果たし、何かあげたくなったが、何も無く、財布に入っていた日本の小銭をあげたら、コックはそれをみんなに見せていた。まだ日本人が珍しい時代だった。列車内ではラジオ放送が流れていたが、それが時々モスクワ放送の日本語に切り替わった。僕にはロシア語放送のほうが良かったが、どうやら車掌さんが気を遣ってくれているらしかった。比較的長く停車する駅では、周囲のロシア人が博物館へ案内してくれたり、停車駅での名物食品を知らせてくれたりした。あれから30年、食堂車へ入って昔のような待遇を期待していたわけではないが、市場経済へ移行したロシアにとって日本人は珍客でもないし、カネ払いの良い事が期待される普通の外人客以上でも、以下でもなさそうである。)


スープ(サリャンカ)


鶏肉料理


砂糖が無いと思ったら、案の定、紅茶には砂糖がたっぷり入っていた。どういうわけか、甘い紅茶はチョコレート付きだった。
チタ駅
(ハバロフスクから41時間)
チタ駅到着は真夜中の午前一時過ぎだった。


ウランウデ駅

チタからウランウデ、ウランウデからイルクーツクへの移動は、いずれも夜行列車を利用した。暗くなってから乗車し、朝方に到着だったので、写真はほとんど撮らないで終わってしまった。

列車の乗客は実に様々な人々であるが、生後10ヶ月の坊やもいた。おばあさんに手を引かれながら車内をヨチヨチ歩いていた。この子は僕らより少なくとも何十年も先を生きる事だろう。子供の姿にその遠い未来が重なるのか、未来への夢を背負った子供はみな可愛い。


TV・朝食付きコンパートメント
ウランウデからイルクーツクへの夜行列車は旧東独製の車両だった。コンパートメントは小綺麗で、テレビが付いていた。それに朝食付きだった。まともな朝食だったが、食べてしまってから写真を撮るのを思い出し、時すでに遅かった。
イルクーツクに到着し、プラットホームへ荷物を降ろしていたらポーターがやってきた。値段を聞いたら一個あたりヴォセミ(8ルーブル)と聞こえた。安いと思い、スーツケースなど7個を頼んだ。台車が無いと思ったら、この人は台車を使わないとの事。荷物を紐で結び、7個を一人で担いだ。料金は8ルーブルではなく、80ルーブルだったが、迫力に負けて支払った。


体力勝負のポーター