アレクサンドル三世の銅像

イルクーツクのアンガラ川のそばに、最後のロシア皇帝ニコライ二世の父であるアレクサンドル三世の銅像が立っている。
過去に何回かイルクーツクを訪問したが、ここにアレクサンドル三世の銅像は無かったはずだ。
ここにあった記念碑はこんなものだった。「今まで見てきた記念碑」

しかし、アレクサンドル三世の銅像はロシア革命前に建てられたとの説明だった。それが気になり、その経緯を追ってみた。

アレクサンドル三世像はシベリア鉄道の完成を記念して建てられたそうである。記念碑が設置されたのは1903年6月22日であるが、除幕式は1908年8月30日だった。1908年8月はイルクーツクがロシアのヨーロッパ地域と鉄道でつながって10年目だった。それに除幕式を合わせたようだ。

シベリア横断鉄道の完成を記念して、その建設の庇護者と見なされていたアレクサンドル三世の記念碑をロシア国内三カ所に建てる事が決定したのは1902年の事だった。イルクーツク以外の二カ所はサンクトペテルブルグ(1909年)と、モスクワ(1912年)であり、イルクーツクが一番最初だった。

1902年、イルクーツクの記念碑の設計に関して全ロシア規模のコンクールが実施され、御影石の台座に立つアレクサンドル三世像をデザインした彫刻家R.R.バフの図案が採用される事になった。

皇帝の像、及び他のブロンズ部品の製造はサンクトペテルブルグの「モラン社」が行った。台座にはフィンランドの赤御影石が使用され、フィンランドの職人により工事が行われた。皇帝の像の高さは5.3mだった。

台座の四面には、シベリアの発展に功績を残した歴史上の人物が彫刻された。アンガラ川へ面した台座の西面には1848年から1861年まで東シベリア総督だったムラヴィヨフ・アムールスキーの浮き彫り彫刻が施された。彼の功績は広大なアムール州のロシアへの平和的な併合と、アムール川流域での露清の国境を定めた1858年のアイグン条約の締結である。
北面にはロシアのシベリア開拓の地ならしをしたエルマークが彫刻された。南面には1819年から1821年まで東シベリア総督で、州の改革に功績のあったM.M.スペランスキーが彫刻された。
東面にはシベリア鉄道建設の勅令が記載された巻物を爪でおさえた双頭の鷲の彫刻が取り付けられた。
台座の四隅には当時のシベリア、イルクーツク、エニセイスク、ヤクートの紋章が描かれた。

1909年の春、皇帝の記念碑の周囲に非常に美しい金属製の柵が取り付けられた。イルクーツクの技師V.I.コリャノフスキーの設計により、サンクトペテルブルグの「オベルトゥール社」が製作したものだった。

記念碑の台座の東側には「アレクサンドル三世へ捧げる」、そして西側には「ありがたきシベリア」と刻まれていた。

「ロシア革命前のアレクサンドル三世の記念碑」1

1920年3月、労農赤軍部隊がイルクーツクに入り、それまでコルチャーク提督が率いていた反革命軍に代わってイルクーツクの統治を始めた。共産政権の意向により、この年のメーデーの祝日までに皇帝のブロンズ像は台座から撤去された。それ以来44年間、台座には何も無い状態が続いた。アレクサンドル三世は「バンピーロフ」(人民の吸血鬼)というような蔑称でよばれるようになった。

取り外され、分解されたブロンズ像は、数年間は地理博物館の中庭にあったそうだが、その後の行方は不明となっている。

1964年、皇帝の像の代わりにイルクーツクの建築士V.P.シマトコフが設計したコンクリート製のオベリスクが設置された。そして記念碑を「シベリア探検家の記念碑」と言うようになった。「今まで見てきた記念碑」

1985年〜1986年、イルクーツクの市制300周年を祝って記念碑の台座と、その周囲の透かし彫りの金属柵が修復された。台座ブロックの締め直しが行われ、それらの隙間に特殊混合物が注入され、多数の亀裂が入っていた柵の下には鉄筋コンクリートの基礎がおかれた。

ソ連共産政権が崩壊し、ロシアとなり、エカテリンブルグ郊外で銃殺されたとされるニコライ二世一家の遺骨の真贋が問題になったり、共産政権下で管理されてきたロシア史の見直しも盛んになってきたようだ。

2003年10月4日、アンガラ川の川岸でアレクサンドル三世の復活記念碑の除幕式があった。皇帝のブロンズ像は83年経って再び姿を現したのだった。

ブロンズ像は元の場所、元の台座へおさまったが、時代は変わった。今は帝政下でも共産政権下でもない。昔は記念碑へ通じる道を「ボリショイ通り」と言ったが、現在は「カールマルクス通り」である。

除幕式では副市長のユーリー・ヴォルコフが「20世紀初頭の時と同様に、記念碑は義援金と鉄道会社の資金で再建された。過去を忘れる国民には未来は無い。」と言ったそうである。

1908年に建てられたブロンズ像は、その台座に12年間だけ存在した。今回は過去の誤りを繰り返すことなく、長らく残りそうである。

下は現在のアレクサンドル三世の記念碑
このブロンズ像の設計はアルベルト・チャルキンが行い、2003年にサンクトペテルブルグで製作された。
昔のブロンズ像に似せて製作されたようだ。