サハリン 

 サハリンという名称は満州語から派生した言葉のようである。アムール川(黒竜江)を満州語で「サハリャン・ウラ」(黒い河)と言うが、この満州語の名称がロシアの古い地図でサハリン島に記載され、その後に発行された地図でもそのまま印刷され、いつのまにかサハリンとして定着するようになったようである。日本ではカラフト(樺太)と言っていたが、カラフトはアイヌ語の「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシル」(神が造った河口、丘、島のある土地)から派生した名称のようである。江戸時代は北海道以北を当初は「蝦夷地」という名称にしていたが、1809年から現在のサハリン島を北蝦夷と公称し、樺太(カラフト)という名称が制定されたのは明治初頭(1869年)である。
 サハリン島は南端のクリリオン岬から北端のエリザベータ岬まで、その南北の全長は948kmであり、東西の幅は最狭部で26km、最も広い部分で160kmの南北に細長い島で、その面積は76,400km2である。島内の最高峰はロパチナ山で標高1609m。
 18世紀から19世紀にかけてサハリンが島であるか半島であるか明確ではなかったが、1809年に間宮林蔵が島である事を確認し、1849年にはロシアのネヴェリスコイ(Геннадий Иванович Невельскойが輸送船バイカル号で海峡を通過し、船舶での通行が可能な事を確認した。日本ではこの海峡を間宮海峡、ロシアではタタール海峡と称し、最狭部をネヴェリスコイ海峡と称している。
 現在のサハリンには市が15カ所、町が5カ所、村落が218カ所となっている。2007年1月1日現在のサハリン州内の総人口は521,200人で、そのうち都市部の人口は406,200人である。州内には100以上の民族が住んでいる。住民の大多数(80%以上)はロシア人であり、ロシア極東の少数民族としては、ニブヒ、オロチ、エベンキ、ナナイ、ウルチ、アイヌが住んでいる。
 1月の平均気温は島の南部で-6度、北部で-24度であり、8月の平均気温は南部で+19度、北部で+10度である。

2001年2月から2008年12月までのユージュノサハリンスクの気温データ 
(出典:ロシア語フリー百科事典『Wikipedia』より)

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間
最高気温 1.7 4.1 9.0 21.0 25.0 28.2 29.6 32.0 26.0 22.8 15.3 5.0 32.0
平均気温 -12.0 -11.7 -4.7 1.8 7.4 12.3 15.5 17.3 13.4 6.6 -0.8 -9.0 3.2
最低気温 -29.5 -30.5 -25.0 -14.5 -4.7 1.2 3.0 4.2 -2.1 -8.0 -16.5 -26.0 -30.5

 サハリンでの最高気温(+39度)は、1977年6月にノグリキ地区のポグラニッチノエ村で観測された。サハリンでの最低気温(-50度)は、1980年 1月にティモフスク地区のアド・ティモヴォ村で観測された。ユージュノサハリンスクでの記録に残る最低気温は-36度で(1961年1月)、最高気温は+34.7度(1999年8月)である。

 サハリンで最も早く根雪になるのはオハ地区のエリザベータ岬とティモフスク地区のアド・ティモヴォ村で、平均して10月31日であり、最も遅いのはコルサコフ市で、平均して12月1日である。根雪が溶けるのはホルムスクの4月22日からエリザベータ岬の5月28日までである。ユージュノサハリンスクが根雪でおおわれるのは平均して11月22日で、それが溶けてしまうのは平均して4月29日である。

サハリン島内の河川の長さベストテン
河川の名称 河川の通過地区 流れ出る先 河川の長さ
1.ポロナイ ティモフスク地区、スミルヌィフ地区、ポロナイスク地区 オホーツク海 350km
2.ティミ ティモフスク地区、ノグリキ地区 オホーツク海 330km
3.ランゲリ オハ地区 オホーツク海 130km
4.リュウトガ ホルムスク地区、アニワ地区 オホーツク海 130km
5.ルクタマ ポロナイスク地区 ネフスコエ湖 120km
6.ナイバ ドリンスク地区 オホーツク海 119km
7.ヌィシ ノグリキ地区 ティミ川 116km
8.ヴァル ノグリキ地区 オホーツク海 112km
9.ウグレゴルカ ウグレゴルスク地区 間宮海峡 102km
10.ナビリ ノグリキ地区 オホーツク海 101km

植物相と動物相

 サハリン島内の植物相や動物相は大陸側の地域や南に位置する北海道と比較すれば、その種類は少ない。2004年初頭の時点で、サハリン島内の植物相はシダ植物と種子植物を含む維管束植物 (vascular plants, tracheophytes) が1521種類あり、それらは132科575属に分類されており、そのうち7科101属は外来種である。サハリン島内の外来種の総数は288種、または全植物相の18.9%である。サハリンの維管束植物は基本分類体系により下記のように分類されている。(外来種を除く1233種)

 シダ植物 - 79種(内訳はヒカゲノカズラ植物門に属するものが14種、トクサ植物門が8種、ウラボシ門が57種)、裸子植物門 - 9種、被子植物門 - 1146種(内訳は単子葉植物綱に含まれるものが383種、双子葉植物綱に含まれるのが763種)である。サハリンの植物相における維管束植物の主要な科名はカヤツリグサ科(Cyperaceae)(外来種を除き121種、外来種を含め122種)、キク科(Asteraceae) (外来種を除き120種 - 外来種を含み175種)、イネ科(Poaceae) (外来種を除き108 種- 外来種を含み152種)、バラ科(Rosaceae) (外来種を除き58種 - 外来種を含み68種)、キンポウゲ科(Ranunculaceae) (外来種を除き54種 - 外来種を含み57種)、ツツジ科(Ericaceae) (外来種を除き39種 - 外来種を含み39種)、ナデシコ科(Caryophyllaceae) (外来種を除き38種 - 外来種を含み54種)、タデ科(Polygonaceae) (外来種を除き37種 - 外来種を含み57種)、ラン科(Orchidaceae) (外来種を除き35種 - 外来種を含み35種)、アブラナ科(Brassicaceae) (外来種を除き33種 - 外来種を含み53種)である。

 サハリンの維管束植物は生態により次のように分類されている。木は44種、蔓植物9種、灌木82種、低灌木54種、小灌木と小低灌木4種、多年草961種、一年草と二年草が79種(これら全ての数字に外来種は含まれていない)。サハリンの針葉樹の森を主に形成しているのはグイマツ(Larix gmelinii)とカラマツ(L. leptolepis)、エゾマツ(Picea ajanensis)、アカエゾマツ(P. glehnii)、トドマツ(Abies sachalinensis)、ヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris)である。主な落葉樹はダケカンバ(Betula ermanii)、シラカバ(B. alba)、ケヤマハンノキ(Alnus hirsuta)、ヤマナラシ(Populus tremula)、ドロノキ(Populus suaveolens)、エゾヤナギ(Salix rorida)、バッコヤナギ(S. caprea)、トカチヤナギ(S. cardiophylla)、ケショウヤナギ (Chosenia arbutifolia)、ハルニレ(Ulmus japonica)、オヒョウ(U. laciniata)、オガラバナ(Acer ukurunduense)である。

 私はサハリンに滞在した二年余りの間、日本で高山植物と言われる山野草を中心にして、出会った花々をカメラにおさめた。写真に撮った山野草は270種程度で、写真を撮りそびれた花々も含めると、山野で出会った花々はゆうに300種を越えていたと思う。パソコンの中には、写真を撮ったのに、まだ名前を同定できないでいる花々も多い。まだ未完成であるが、ここにサハリンで出会った山野草を並べている。

 サハリン島内には44種類の哺乳動物が生息しており、それらの中でよく知られているのは熊、テン、カワウソ、ミンク、トナカイ、クズリ、トドなどである。サハリンの哺乳動物の約半数はゲ歯目の動物である。

 サハリンでは378種類の野鳥が確認されており、そのうちの201種(53.1%)はサハリン島内に巣を作っている。サハリン島の南部で最も多くの種類が(352種)確認されており、島の中央部で320種類、北部では282種類が確認されている。巣作りをする大多数の鳥(88種)はエンジャク目に属しており、その他、鳥類相では猛禽類(33種が巣作り)、ガンカモ目(22種が巣作り)、フクロウ目と鷲鷹目はそれぞれ11種類が巣作りをしている。

 サハリン滞在中、特に意識しては動物の写真を撮ろうとは思わなかったが、たまたま写真に撮った哺乳動物や野鳥などのいきものは、ここのページにまとめている。野生の熊に何度か接近して撮影出来たのが幸運だった。

ユージュノサハリンスク市

 ユージュノサハリンスク市はサハリン州の州都であり、サハリン州の行政と経済の中心である。
ユージュノサハリンスクの起源は1881年に建設が始まったウラジーミロフカという小さな集落だった。2007年度の人口は173600人。モスクワとの時差は7時間であり、モスクワが深夜をむかえる頃、サハリンでは新たな一日の朝が始まり、勤め人は職場へ向かう。町の東側にはチェーホフ山(旧名:鈴谷嶽)を中心とするススヤ(鈴谷)山脈、西側にはミツリャ山脈が展開し、町はこれらの山脈に挟まれたススヤ川沿いのススヤ盆地に位置している。(北緯46度 57分、東経142度44分)


ユージュノサハリンスク市の東側に位置するゴールヌイヴォズドゥフ(旧旭ヶ丘)からの全景


歴史

  考古学上の発見物によれば、サハリンに人類が登場したのはおよそ2万年から2万5千年前で、氷河期に世界の海水面レベルが下がり、サハリンと大陸の間、そしてサハリンと北海道の間に陸地が現れた旧石器時代である事が示されている。(その時代にアジアとアメリカを結ぶもう一つの陸の「橋」が現在のベーリング海峡付近に存在し、Homo sapiensはアメリカ大陸へ渡った。)新石器時代(2〜6千年前)に現在の旧アジア少数諸民族であるニブヒ(島の北部)やアイヌ(島の南部)祖先がサハリンへ渡って来た。
中世においてはこれらの民族集団が島内の主要な住民であり、ニブヒはサハリンとアムール下流域を行き来し、アイヌはサハリンと北海道を行き来した。彼らの物質文化には多くの共通点があり、生存手段は漁業、狩猟、採集だった。中世の終わりに(16〜17世紀)サハリン島にツングース語を話すエベンキ(トナカイの飼育をする遊牧民)やエベンキの影響でトナカイの飼育をするようになったオロッコが現れるようになった。
 サハリン島(樺太)の先住民は北方系少数民族であるが、島内を統一、平定した強力な部族の歴史は見あたらず、樺太アイヌは主に南樺太地域に居住し、樺太中央部から北部にかけてはニブヒ、樺太北方にはエベンキ、オロッコと呼ばれたツングース系の人々が住んでいたようだ。中国大陸に元、明、清などの国家が形成されると、朝貢したり、あるいは交易をしたり、大陸からの影響も受けていた。また、江戸時代には幕府が蝦夷地(樺太)を直轄地とし、その後、松前藩の領地に編入された。しかし、19世紀になってからこの地域に登場してきたロシアは自国の領土であると主張し、19世紀後半に至るまでその帰属先は明確ではなかった。
 日露間の下田条約(1855年)により、千島列島の択捉島と得撫島の間に日露間の国境線が引かれ、サハリン(樺太)においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。さらに1875年のサンクトペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)によりロシアは北千島列島の全てを日本へ渡す代わりにサハリン島の領有権を得た。その後の日露戦争(1904〜1905年)でロシア帝国が負け、ポーツマス条約が締結され、日本はサハリン島の南半分(北緯50度まで)の領有権を得た。ところが第二次世界大戦の結果、ソ連(現ロシア)はサハリン全島と千島列島の全てを実効支配するようになった。日本政府は千島列島の4島(国後、択捉、歯舞、色丹)に対しては正式に返還を要求しているが、サハリン島に関しては公式な返還要求は何もなされていない。


ノグリキの郷土史博物館
で見かけた北方先住民族が使用していた品々。

サハリンとチェーホフ


サハリン州立美術館前のチェーホフ像

チェーホフ記念館前のチェーホフ像

 1890 年、ロシアの作家チェーホフはサハリン島を訪れ、三ヶ月間ほど島内に滞在し、およそ1万人分の住民調査票を作成した。当時のサハリン全土の人口が約1万6 千人程度だったようなので、チェーホフの住民調査票は当時の人口のかなりの部分をカバーした貴重な資料となっている。その時の紀行は後に「サハリン島」にまとめられた。この「サハリン島」には後のユージュノサハリンスク(豊原)の起源になったウラジーミロフカという集落の記述もある。

チェーホフ「サハリン島」から抜粋
Еще через пять верст селение Владимировка, основанное в 1881 году и названное так в честь одного майора, по имени Владимира, заведовавшего каторжными работами. Поселенцы зовут его также Черною Речкой. Жителей 91: 55 м. и 36 ж. Хозяев 46, из них 19 живут бобылями и сами доят коров. Из 27 семей только 6 законные. .........
(さらに5露里行くと、1881年に礎が据えられ、徒刑労働を監督していたウラジーミルという名の少佐に敬意を込めたウラジーミロフカ村がある。流刑囚たちはこの集落をチョ−ルナヤ・レーチカ(黒い川)ともよんでいる。住民総数は91人で、うち55人が男性、36人が女性である。戸主は46人で、そのうち19 人は天涯孤独に暮らし、自分で搾乳をしている。27世帯のうち、6世帯だけが正式に縁組をしている。ーーーーーーー。)

 ウラジーミロフカという集落は市内のどのあたりに所在していたのか常々疑問に思っていたが、ユージュノサハリンスク市内の北西部、ススヤ川とサハリンスカヤ通りが交差する橋のそばに記念碑を発見し、疑問は氷解した。近くに寄って記念碑に刻まれた文字を読むと、「1882年、ここにユージュノサハリンスク市の起源となったウラジーミロフカ村がロシア人流刑囚たちによって建設された。」と記述されていた。


 この記念碑のそばをススヤ川が流れているが、チョ−ルナヤ・レーチカ(黒い川)かどうか、橋の下へ降りて川面を見たが、語源になったと思われるほど特に黒いという印象は無かった。現在のこの川に架かる橋は日本の統治時代に建設された桁橋で、その後のソ連時代に修復工事が行われたが、桁部分、基礎部分は日本時代からのものをそのまま利用しているようであった。



平均賃金、年金など

 平均名目賃金は2009年2月の時点で30,294.1ルーブルであり、2008年2月の時点に比べると16.6%の増加である。(全ロシアでの平均は13.9%)
 実質賃金は2009年2月の時点で一年前に比べて2.0%の増加である。(全ロシア平均では0.1%)
 賃金の未払い総額: 2009年4月1日現在での賃金に関する未払い金の総額は1291万4千ルーブルであり、前月に比べて602万4千ルーブル(1.9倍)増加した。
 サハリン州年金基金部門のデータに寄れば、2009年4月1日現在、年金受給者数は157,785人で、そのうち73,377人は仕事を継続している。補償金を含む平均年金額は2009年4月1日の時点で6,967.8ルーブルだった。
 年金額は前年の同時期に比べて金額で28.6%増加し、インフレ分等を除いた実質では12%増加した。
 年金額は前期と比較して(2009年2月1日時点)実質7.4%増加した。
 年齢による年金生活者のほかに、労働不能な住民のケアをしている1,529人の労働適齢者が年金基金から年金を得ている。彼らの年金額は1,717.5ルーブルとなった。

現金収入、補助金など

 一人あたりの平均現金収入は2009年第1四半期で月額21,005.2ルーブルと評価され、2008年の第1四半期に比べて6%増加した。
 その時期の住民の実質現金収入は8%減少した。
 現金収入の総額から住民は商品の購入代金とサービス料金の支払いに77.1%(2008年第1四半期では71.7%)を充当し、各種課徴金に12.9% (同13.1%)、外貨の購入に6.8%(同5.6%)、貯蓄に9.5%(同9%)を充当した。出費が収入より6.3%上回った。
 2009年第1四半期の最低生活費は州全体で8,094ルーブルであり、そのうちの労働可能な住民に関しては8,551ルーブル、年金生活者は6,610ルーブル、児童は7,655ルーブルだった。
 2008年度には33,900所帯が住居費と公共料金の支払いに関して補助金を受給されたが、それは2007年度に比べて12.1%少なかった。
 補助金の合計総額は3億5千9百10万ルーブルで、そのうち3億5千5百90万ルーブルが実質的に償還され、それは合計金額の99.1%だった。
 州全体での一所帯あたりの月平均補助金は882.4ルーブルだった。
 2008年度に社会支援を受けた住民数は94,500人であり、その数は2007年度に比べて1.4%少ない。特典を受けている人は79,700人である。社会支援金の月平均額は利用者一人あたり661.7ルーブルだった。
 特典を受けている人々の中で多数をしめるのは「功労者法」に基づいて住居費の社会支援を受けている人々で53.7%であり、障害者や子供の障害者を持つ家族は33.4%だった。
 2009年4月1日現在、31101人の幼児に対して総額2千5百40万ルーブル以上の補助金が計上された。
 3月に計上された補助金総額のうちで、シングルマザーへの補助金の比重は州全体の平均で38.2%だった。
 本年3月には481人の幼児に対して初めて補助金が支払われた。
 幼児一人あたりに対する補助金の平均計上額は3月度で274ルーブルであり、そのうちシングルマザーの子供たちには447ルーブル、徴兵に出た親の子供たちには503ルーブル、養育費の支払いに応じない親の子供たちに対しては328ルーブルだった。

(出典:SAKHALINSTAT http://www.sakhalin.su/sakhalinstat/index.php)