敷香と大鵬親方
ポロナイスクが敷香と言われた時代、敷香は国境だった北緯50度線に近い最も大きな町だった。1917年のロシア革命、その後の赤軍と白軍に分かれた内戦は当時のサハリン島へも大きな影響を与えた。サハリンの北緯50度以北はロシア領であったが、そこに最終的に共産主義政権が樹立されたのは1925年のことだった。1925-1926年頃は白軍に属していたり、共産主義政権下での生活を受け入れがたく思っていた多数の白系ロシア人が国境を越え、この敷香へ流れ込んでいたようである。
そういう人々の中に大鵬親方の父親のマルキャン・ボルィシコ氏(ウクライナ系)も含まれていた。大鵬親方の母親は納谷キヨという日本人である。大鵬親方は1940年5月29日に敷香で生まれた。幼少の頃はイワンと言われていたそうである。1945年、ソ連軍の侵攻とともに樺太がソ連領になると、大鵬親方の家庭が引き裂かれる事になった。父親が白軍に所属していたという嫌疑で拘束され、そして粛正された。イワン少年と母親、兄弟たちは敷香から北海道へ引き揚げた。
大鵬親方は、言わずと知れた相撲界に燦然と輝く不世出の大横綱で、若い頃は色白の美男子であり、女性からの人気がもの凄かった記憶である。日本とウクライナのハーフと言えば、甲子園を沸かせた高校野球の太田幸司選手もそうだが、みな美男子になる傾向があるようだ。 |