マカロフ(知取町)
ロシア側の資料に寄れば、最初の集落は1892年にセリュウトラ村として生まれた。セリュウトラとはアイヌ語で「陸地の集落」を意味している。二年後の1894年、この集落には3軒の家と総数5名(男3名と女2名)の住民がおり、彼らは流刑地に強制移住させられた人々であった。彼らは主に農耕、牧畜、漁労、狩猟をしながら生活をしていた。
1890-1900年、コルサコフの哨所からアレクサンドロフスキー哨所まで馬車道が整備され、アイヌが郵便物を内路(ガステロ)まで運び、そこで北方から届けられる郵便物と交換した。その当時に郵便電信局の村「モクン・カタニェ(現在のプガチェヴォ村)」が誕生した。
日露戦争(1904-1905年)の結果、樺太(サハリン)の南半分は日本領となり、日本の統治下で製紙工場、炭坑、その他の産業が生まれた。集落は大きく発展し、知取町となった。
第二次世界大戦の末期、ソ連軍が侵攻し、樺太はソ連の支配下に入り、知取町はマカロフと改名された。現在は製紙工場は廃墟となり、炭坑も活動していないようだった。
マカロフの唯一の名所・旧跡は日本時代に建設された神社であるが、90年代に破壊、略奪され、現存しているのは基礎の部分と一部の残がいのみである。