アルバジン小史 |
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1)時代背景 中国に最初のロシア正教徒が登場したのは、13世紀にモンゴル軍により焼土と化したキエフから数万人の捕虜がアジアの奥地へ連行された時だった。 しかし14世紀の中頃には、彼らは祖国との連絡も無く、宗教的な支えも無くなり、現地の部族へ同化した。 ロシアと中国との関係がより頻繁になってきたのは17世紀中頃であり、中国では王朝が明から清へ変わった時代でもあった。明の時代の末期、およそ20年も農民蜂起が続発し、これを自力で鎮圧する能力を失った明は満州族の軍隊を入れるが、援軍として来訪した満州軍はその後も満州へ戻る事はせず、そこに留まり国家権力を奪取した。 当時の満州族を中心にした軍勢は30万であり、その勢力で当時すでに人口が約1億人に達していた中国を支配するには人手が少なすぎた。そのため満州族はアムール流域に住んでいた同族の満州人を清朝の内部へ強制移住させた。 そういうわけで17世紀の50年代、最初のロシア人入植者が太平洋沿岸に現れた頃は、アムール流域は満州人が去った後であり、空洞化した状況でもあった。 1643年に猟師たちとともに最初にアムール流域に沿って踏破したコサックのポヤルコフが伝えた流域の富や、そこに住む人々に関する情報は新たな開拓者の流れを呼んだ。 この頃にはエニセイスクの司令官だったパシコフがバイカル以東のトゥングースとブリヤートの領土へ侵入した。 1650年、猟師や手工業者を引き連れたハバロフ(1610-1667)はダウールの地(ザバイカル地方およびアムール川上流地方のロシア名で、モンゴル系の部族が住んでいた)へ入り、アムール川へ至った。ロシア人のダウールの町への侵攻を阻止しようとしたダウールの人々(モンゴル系部族)は撃退され、ダウールの部族長たちはアムールの下流へ逃げた。ハバロフの軍勢はダウールの町であるアルバジンを占拠し、そこに定住した。1651年の春にアムール川を下ったハバロフは、下流にはトゥングース族、ギリヤーク族が住み、彼らはアムールの領主であったラムカイ、及びボクドイのシェムシャハン王に服従している事を知った。 ハバロフもロシア皇帝の為に彼らから貢ぎ物を徴収した。アルバジンは1651年には柵で囲われた砦になり、アムール流域でのコサックの出撃拠点になった。コサックはここからアムール川を移動し、ダウールの人々と戦い、彼らから家畜を奪い、毛皮税を徴収し、アムール流域の住民に関する情報を収集した。 そのようなロシア側の動きに不安を感じた清の皇帝は、ロシア側のネルチンスクとアルバジンの司令官に対し、清国への服従、毛皮税徴収の中止を要求し、アルバジンとその周辺の砦を破壊し、退却した。事件は砦の破壊で終わったが、ロシア人たちの領土拡張の意欲を鎮める事にはならなかった。1661年、イリムスク砦のチェルニーゴフスキーは100名の部下を連れてダウールの地へ入り、アムール川沿いに再びアルバジンの砦を築き、耕作を始めた。アルバジン砦からモスクワへの毛皮の供給が始まり、1672年にはネルチンスクから農民の移住もあった。 2)アルバジンの攻防戦 1684年、異民族に圧迫されたコサックたちの多数の援助要請に対し、アルバジンに軍司令官を派遣する事がモスクワで決まった。軍司令官にはアレクセイ・トルブジンが任命された。康煕帝(1662-1723)が即位すると、清朝側は北満州の砦や要塞を強化してロシア人入植者を圧迫し、1682年にはドロンスクとセレムビンスクの砦を破壊し、そこの住民は逃げ去った。1683年にはゼイスクとトゥギルスクの砦が破壊され、その際には住民が捕虜として連行された。その後、清朝側はアルバジンに対して兵力を集結させた。戦いに入る前に清朝側はロシア側に対し、アムール流域から退去するよう呼びかけたが、ロシア側は同意しなかった。康煕帝は、小兵力での要塞の奪還は不可能だと判断し、ロシア人を追い出すために大軍を送り込む事にした。 アムール川へ流れ込むスンガリ川では船団が建造され、アルバジンの下流には要塞が建てられた。兵のために大量の食料が備蓄された。耕作地や糧食庫が不十分だったため、兵士の食料や砲弾はリャオヘ川を経由してスンガリへ送られた。ランタニ将軍とカトリック宣教師団に統率された15000名の兵士、100門の大砲、50門の攻城砲が集結した。これら全ての軍勢が開拓民、女性、子供の他に450名のコサックが3門の大砲と300丁の銃で立てこもる砦へ向かった。清朝満州軍からの降伏の呼びかけに対し、砦の司令官だったアレクセイ・トルブジンは拒否の返事をし、6月14日、総攻撃の準備が始まった。 降伏勧告の拒否の後、船でアルバジンへ近づこうとした40名のロシア人は殲滅され、女性と子供は捕らえられた。突撃で始まった戦いが一昼夜続き、満州軍はいったん撃退させられた。今度は、満州軍は火炎弾で要塞を攻めた。ロシア側は約100名の兵を失い、弾薬が底をついた後は投石で応戦した。敵軍による包囲の中で、勝ち目のない圧倒的な兵力差を眼にした修道士のゲルマン、チーホン、司祭のマクシム・レオンチエフは司令官を説得し、砦は陥落した。清朝側は外国人女性だけを残してアルバジンの全住民を解放した。康煕帝は捕虜に対して寛大に対応し、危害を加えないように命じ、ヤクーツク、ネルチンスクへ戻るか、清朝への帰化を提言した。その呼びかけに対し、女性と子供を含む45名(コサックは25名)が清への同行を了承し、残り(約300名)は町の崩壊の目撃者となり、満州兵に身ぐるみ剥がされてネルチンスクへ向かった。弾薬が無いので彼らは植物の根を食料とし、満州軍はコサックたちがアルバジン地域の最後の集落にたどり着く200露里に渡って監視をした。その後、アルバジンから移動したコサックたちはネルチンスクからの援軍部隊(300丁の鉄砲と3門の大砲で装備された100名の部隊)と合流した。しかし、これでアルバジンの小史が終わったわけではなく、翌年トルブジンは要塞を再構築し、ロシアがアムール流域を清朝側へ渡す事になった1689年8月27日のネルチンスク条約締結に従って要塞が破壊されるまで、さらに2年間も清朝側に包囲されていた。 3)アルバジン砦から中国へ渡ったロシア人たち アルバジンから北京へ向かったコサックや、それ以前に捕虜になっていた数名のロシア人たちは清朝時代の中国に最初の小さなロシ人社会を形成した。 康煕帝の指示により、ロシア人達は北京の北東に位置するDunchzhimenj門(現在のロシア大使館が所在する地区)に近い町の外壁付近に住む事になった。彼らは満州旗軍に編入され、黄旗に属する軍人と見なされた(その当時の満州軍は八つの『旗』軍で構成され、それぞれが自軍の旗色を持っていた)。アルバジンから来たロシア人には金銭給与が定められ、住居が与えられ、耕作地が分与された。所帯を持ちたい希望者には妻をさがしてやった。 アルバジンからのロシア人と、彼らの子孫は中国の首都で小さいながら独特な民族社会を形成した。外面的にはとても早く中国化した。清朝の慣習に従い、額をそり、弁髪を伸ばし、中国服を着て、中国式に食事をし、中国語と満州語を習得した。彼らを精神的にロシアと結びつけている唯一のものはロシア正教の教会であった。ロシア人達はアルバジンを去る時に、礼拝用具と聖ニコライ・ミルリキースキーのイコン(後にこのイコンは偉大な聖物とみなされた)を持参した。また、中国で最初のロシア正教の司祭、宣教師となったマクシム・レオンチェフ司祭が彼らと一緒に北京に来たのだった。康煕帝の指示により、礼拝を行うための中国の小さな廟がロシア人たちに与えられ、マクシム神父はそれを聖ニコライ礼拝堂に変え、1696年にはトボリスクのイグナチエフ府主教により聖ソフィア聖堂となった。 中国の首都でのアルバジン出身ロシア人社会の存在は、ピョートル大帝の提唱により、イラリオン大修道院長を代表とするロシア宣教師団が1715年に北京へ派遣される原因となった。宣教師たちは十年おきに任務を交代した。宣教師団は1950年代の半ばまで北京で活動を続け、ロシアでの中国研究分野の発展に大きな貢献をした。アルバジン出身者達はロシア正教の忠実な信者であり続け、彼らの小社会から多くの聖職者が輩出した。最も有名なアルバジン出身家族のひとつの姓はドゥ(ドゥビーニンДубинин)だった。アルバジン出身者の子孫は現在でも中国に住んでいるそうだ。 【追記】 細谷先生のご指摘ではロシアから順治5(1648)年にはグレゴリー、康煕7(1668)年にイワンが清朝にやってきて八旗に参加、康煕22(1683)年にグレゴリー、マキシムなどネルチンスクから31人が来帰したことが清朝の史料に記載されているそうである。 参考文献のあったサイト http://www.magister.msk.ru/library/history/kostomar/kostom39.htm http://www.21v.ru/avarya/pkytay/pkytay.htm http://www.krotov.org/libr_min/m/medved_a.html http://www.orient.pu.ru/Albazin.html |